三鷹電車区の跨線橋のこと

太宰治という人の小説ではじめて読んだのが「富嶽百景」です。出てくるところが御坂峠とか甲府とか知ってる土地であるせいもあってなんだかよくわからないけど読んでいました。そのあと「お伽草紙」を読んで仰天します。誰もが知る昔話がベースになってるのですけど雀とだけ会話するお爺さんに嫉妬するお婆さんとか詳細は小説をお読みいただきたいのですが一筋縄ではいかない作家である、という印象を持ち続けています。他にも「誰」という短編があるのですがなんだかお笑い的な「オチ」を意識していている気がしてならず、いったいどういう人であったのか、興味が尽きないところがあります。

東京の多摩に三鷹というところがあります。太宰が晩年に住んだのが三鷹です。太宰と全然関係ありませんがこれを書いてるやつが未成年の頃によくうろついていたのが三鷹です。

三鷹駅の西側に電車庫があります。その電車庫にかかる跨線橋は夕焼けの頃や雪の夜がきれいで、お前バカだろ?ってなことを書くと見せたいものがあると言ってホッカイロ持参でデートで雪の夜に行ったこともあります。ここ10年くらいで知ったことですが(雪の夜かどうかは知らぬものの)太宰も訪ねてくる人が居るとよくここへ連れ出していたそうで。つまり太宰が生きていた頃にはこの跨線橋はあったことになります。

30日付の毎日新聞で知ったことですが出来たのが昭和4年(1929年)で、当然のこととして耐震性に疑義があり、補強できるかも不透明でJRと三鷹市で協議したものの撤去の可能性があるとのことで。個人的な過去の記憶と結びついてる場所なのでなんとか残してくれないかな感があるのですがって、おっさんの追憶はどうでもよくて。

太宰が生きていた頃の痕跡はほとんど残っていません。左側の工事中のビルのところに以前あった小料理屋さんの2階が最晩年の太宰の仕事場で、向かいのマンションのところにあった建物の2階に一緒に入水自殺する女性が居て、そこから2人して奥に見える玉川上水へ向かうわけですがその玉川上水は場所こそ変わってないのですけど

いまは緑が生い茂ってて、身投げしようにもたぶん枝に引っかかるかなあ、と。

跨線橋は作品には一切出てこないものの太宰治が生きていた頃から現存するおそらく最後の太宰治の痕跡でその点でもいくらか貴重なもので、ちょっと惜しいな、と。卒論が太宰だったわけでもなくそもそも文学部卒ですらなく文学に詳しいわけでもないし、そこに痕跡があるからといって深い理解につながるわけでもないので、その感想は噴飯ものなのですが、稀有な作家の痕跡が消えちまう可能性があるのは繰り返しますが、惜しいです。