「民衆暴力」を読んで(もしくは非常時の流言の怖さについて)

以前、「民衆暴力」(藤野裕子中公新書2020)という本を読んだことを書いた記憶があります。そのときは秩父へ行って秩父事件について興味を持ってて秩父事件と失政に伴う経済的困窮の自己責任の萌芽について主に書いています。

「民衆暴力」は他にも関東大震災時の朝鮮人虐殺について2章を割いて言及しています。簡単に書くと朝鮮出身者が放火などをしているという流言が当時あり、その流言の発生源は判らぬものの実際には警察や内務省がその内容に沿った形で警戒を促していて、警察や軍をはじめ信じてしまった在郷軍人会などを主体とした自警団や民間人などがどのように行動したか、などについて丁寧に書かれています。そして公的な記録にも触れてて(P147)朝鮮出身者の犯罪は140人ほどで、うち氏名不詳(≒氏名がわからないのに朝鮮出身として判断されている人)や死亡等詳細がわからないのが120名、窃盗や横領等で有罪になったのは16名ほどで、東京市の窃盗に限れば震災後3か月で4400件ほどの事件があったのですが、著者の藤野准教授の言葉を借りれば「想像上のテロリスト」をおそれていたことになります。

もちろん例外もあって船橋の丸山や日野などでは虐殺などは無かったこと(P202)などにも本書は触れています。また埼玉県本庄では自警団が朝鮮出身者を本庄警察に連行したところ、警察署長が司法権の侵害であると怒っています(P198)。現代の感覚ではその本庄警察の対応は至極まっとうで、しかし事実は小説より奇なりを地で行くようなことなのですがそれが原因の一つとなって本庄警察は襲撃され焼討未遂事件が起きます。

詳細は本書をお読みいただきたいのですが、放火や窃盗や殺人など実際にをみたわけではないのに言葉の伝聞などで誤った情報に触れ「何か悪い事をしたに違いない」と思うようになった人や、やはり実際に見たわけではないのに言葉の伝聞などで誤った情報に触れ義侠心的なものに突き動かされて自警団などに参加した人の証言が複数出てきます。主語がでかくなりますがもしかして人は非常時には疑うことをしなくなるのかも。

本書の震災を扱った2章分を読んでいて、まず公的機関が誤った情報を流すことの害悪を考えてしまったのですが、それと同時にそれが架空のフィクションでも・だれかの口先ひとつが発端で陰惨な事件が起きたことを考慮すると、だれもが容易に情報を発受信できるようになったことは本来よいことですが条件さえ整えば似たような事件は現代でも起きてしまうのではないか、とは思えました。もちろん現代は大正時代と異なり複数の情報などに比較的たやすく誰にも触れることができますから事実確認は容易のはずで人々は騙されにくくなってるはずですからこの考えは噴飯ものかもしれません。

週末の地震SNSにおいてデマが流れた、でも批判され投稿者が削除した、というのを毎日新聞で読んで、大正時代のようにはならないのかな、と安心しつつ、でも事実に基づかないトイレットペーパーが不足するという噂が拡散して各地で買い占めが起きた記憶が新しいので、一抹の不安がないわけではなかったり。