「ぼくの叔父さん 網野善彦」を読んで

「ぼくの叔父さん 網野善彦」(中沢新一集英社新書・2004)という本を読みました。ここを誰が読んでいるかわからないのでちゃんと書くと中沢新一さんは宗教学者で、網野善彦さんというのは2004年に亡くなった歴史学者です。本書は当事者でしかわからぬ網野さんの評伝です。

いつものように話が横に素っ飛びます。

網野さんと法大の田中前総長の対談が掲載された本を偶然去年読み、その本では網野さんは水田の少ない山梨県東部を引き合いに「穀物を買う百姓」の存在を示しながら自給自足の農村が多くそして移動が少なかったのではないかというイメージを否定していてました。個人的なことを書いて恐縮なのですが家に残る過去帳を見る限り父方の曾祖父の前は大工でその前は煙火屋(花火職人)です。江戸時代は甲州街道沿いの村に居たことになってるのですがその村で花火を打ち上げてたとも思えず(私は法学部出身で史学に強くないので)ずっと謎だったのですが、移動が少なかったということはないだろうという網野さんの説は腑に落ちるもので、それから(まだすべては追えていませんが)網野さんの著作を読みすすめています。その過程で存在を知ったのが上記の中沢さんの十数年前の本です。なので新刊の紹介ではありませんし、これから書くことは既読の方からすると「いまさらなにいってるの?」と云われかねないものであったりします。

第一章の冒頭、網野善彦さんと中沢さんが親戚関係であったことがさらっと書かれています(P10)。しかし読みすすめてゆくうちに中沢家の人々が網野さんの思考に与えた影響について・網野さんが中沢家の人々の思考に与えた影響について、かなりのページが割かれています。

たとえば、戦後の佐世保の基地闘争時の報道で投石を眺めていた(左翼の運動家を経て民俗学の研究者に転じていた)中沢さんのお父さんは中沢さんに(いまの山梨市周辺の)笛吹川で行われていた子供のころの石投げ合戦の記憶を語り(P47)、近所で聞き込みをしつつ民俗学辞典でそれが菖蒲切りと呼ばれ5月の節句の行事であることをつきとめ(P48)たあと、山梨へ帰って来た網野さんに「権力に向かって礫を飛ばすという話を聞いたことがないか?」と問い、投石に単なる節句の行事というのでは済まぬ人類の根源的な衝動があるのではないか?と続けて問います(P50)。そこから中沢さんと中沢さんのお父さんと網野さんの飛礫研究が開始され、詳細は本書をお読みいただきたいのですがそれらが中沢さんのお父さんの著作(「つぶて」中沢厚法政大学出版局・1981)や、網野さんの(朝鮮侵攻時に秀吉が投石に悩まされたことなどが触れられている)「蒙古襲来」などに結実します。中沢さんはこの飛礫に関する再発見が網野さんに「蒙古襲来」を書かせ、そこから網野史学の誕生につながると書かれていて、その妥当性は私は専門外なのでわかりませんが、正直なところ笛吹川の投石合戦から反権力への闘争の根源をも探る飛礫の一件を読みながら鳥肌がたったことを告白します。余計なひとことを書くとウクライナの市民がロシア軍に対して投げつける予定の火炎瓶を自作してる報道をみて、投げるという行為がやはり国境問わずに共通の闘争の手段であるのだな、と妙に納得しています。

網野さんが高校教師時代に生徒から投げられた

天皇制がただの抑圧的な封建制度であるとすると武士権力はそれを消滅させて別のものに置き換えることが出来たはずです。ところが、そうしなかった、いや、できなかった。それはなぜなのか」(P124)

という問いを含め、第三章では天皇制について語られています。その問いは網野さんにとって研究について回る大きな設問になったということを中沢さんは述べつつ天皇制について中沢家でも話していたようで、本書ではそこらへんから国体(not国民体育大会)という言葉の英語の訳し方、稲作を中心とする農業民とそうではない非農業民両方に天皇が君臨していたことなどをに話が及び、租税徴収請負人が間に立ち天皇と間接的につながりを持つ農業民に対し非農業民は租税ではなく神様にお供え物として直接納めさせたゆえに天皇と直接つながっているという考えがあったこと(P140)などの網野説が本書では述べられていて、それらの網野さんと中沢家の人々の会話が中沢新一さんに影響を与えたことも書かれています。丁寧に微に入り細に入り書かれてるので詳細は本書をお読みいただくとして。ここから話はもう一回横に素っ飛ぶ・余計なひとことをお許しいただきたいのですが、死んだ父から口伝で四方拝というのを教わっててしかし偶然の一致の可能性も否定できないのですが天皇家とやってることは細いところは別として形式的に同じであることを最近知り、その上で本書を読んで、煙火屋の末裔であるものの非農業民が天皇家とつながっているとする考えの網野説の傍証になりかねないかもな、と二度目の鳥肌がたっています。

まだいくつか語りたいことがあるのですが、トランセンデンタルなどの横文字が苦手なことに加え、唯物論とかヘーゲルとかフーコーとか平気で出てくる本書を拙い私の頭ではすべて完全に理解したとは云い難いので、ボロが出そうで書けません。ただ私のような拙い頭でもある程度理解できる内容で、なおかつ、刺激的と思える本でした。いつになるかはわかりませんが網野さんの著作を読み通したあとにもう一度読んでみたい気が。