「勝負の三週間」

いまから20年以上前の美青年だった頃…じゃねえ、社会人になりたてで大阪に放り込まれたとき、勤務先の先輩が昼になるとふと消えることがありました。もちろんちゃんと時間には戻ってくるのです。よほど美味しいところに通ってるのかなと考えて教えてもらおうとしたある日、種明かしをしてくれました。梅田から尼崎センタープール前までゆき競艇の1レースだけ勝負して帰ってくるのです。厳しい先輩ではあって観察眼が鋭く、いまから思えばあれがばくち打ちの目なのかも、と思っています。問わず語りで酒が入ると競艇について何度か語ってくれたのですが、たとえば福岡競艇は川の流れに左右されたりとか競艇場によっては差があるそうでそれを頭に入れつつ選手のデータを読んだりとかするらしく奥が深く、(専門性を持つ人の話はたいがい面白いので今でもそれらを記憶してるのですが)競艇は真剣な遊びであることはなんとなく理解しました。以降、勝負というとなんとなく競艇を想起するようになっています。

世の中には勝負パンツってのもあります。いざというときは脱がされる運命にあるものに何が勝負だと硬派に思っていた時期もありますが、遊びじゃない相手を想起しながらいつの間にかどういうのがよいか考えたうえで真剣に選ぶようになってて、って書かなくてもいいようなことを書いてる気もしますが、ともかく、勝負ってのは本来、命にかかわらない真剣な遊びや真剣な戯れに使う言葉という意識が私にはあります。

いつものように話は横に素っ飛びます。

どこの誰が言い出したのかわからぬものの新型コロナ対策で「勝負の三週間」とか「勝負の三週間の二週目」っていうのを報道などで聞くようになっています。でも新型コロナは万一罹患したら死に直結しかねないもので、もちろん対策も遊びであってはならないことです。でもって「勝負の三週間」という言葉に私はかなり違和感があります。私が少数派である可能性も否定できないのですが、事態の切迫さを(遊びや戯れを連想しかねない)「勝負」ということばが打ち消してしまっている気がしてならず、事後諸葛亮というかいまさらなものの、生き残りをかけた三週間、とか事態の切迫状況をストレートに出した方が良かったのではないのかな、と。ここらへん日本語を利用した情報の伝達って難しいなあと思うのですが。

あと、勝負とは関係ないのですが。

この3週間というか両親が眠っている寺に(12月8日の)成道会に際して酔鯨というお酒を贈っています。その礼状が届いたのですがプリントアウトしたっぽい文章の隅っこに今年は「コロナ禍ゆえ、ご自愛ください」と直筆で添えられていました。「ご自愛ください」って去年の今頃までは社交辞令的意味合いしか感じなかったのですが、この10ヵ月ほどで病や死が身近になり状況がシビアになった今は文字通りの意味というか意味合い的に社交辞令ではなくなりつつあるような気がしてならなかったり。状況によって言葉って変化してゆくのかと思っていたのですが、言葉は変わらずに受け取る人間の心境が状況によって変化してるだけ、かもしれないのですが。