私は文学の素養がてんでなければ詩情を持ち合わせていないむくつけき男なので何が良い俳句かとかは正直わからないです。ただ、たまに目にする俳句などでその世界に浸ることがあります。最近読んでいた本のひとつが「葡萄色の夜明け」(開高健著小玉武編・ちくま文庫・2019)で、そのなかに芭蕉がどういう食べ物を詠んでいたのかを紹介している「芭蕉の食欲」というのがあります。それがとても面白かったです…で済ますのはもったいないのでちょっと書きます。
芭蕉の句の中には
てふも来て酢をすふ菊の膾かな (芭蕉句集)
というような(砂糖が入りにくかった江戸期にどうやって膾を作ってたのか引っかかるのですがそれはともかく蝶が菊の膾を吸う、というような)情景を詠んだものがあるのは知っていたのですが、たとえば信州のねずみ大根を食したものであろう
身にしみて大根からし秋の風 (更科紀行)
なども挙げられていて、舌で体感して詠んだものがあるのを改めて知りました。正直に書くとこの句を読んで大根の辛さに当惑してる姿が想像できて私は口許が緩んでいます。
文中の言葉を借りれば食べ物の「その物自体の美質を簡朴に、直下に訴えることに力がそそがれ」(P196)料理らしい料理は読み取ることができない、とも開高さんは述べています。確かに美味しい料理と句を詠む動機はなんだか不思議と遠い気が。
料理とは微妙にことなるものの
納豆きる音しばしまて叩き鉢 (韻寒)
というのも開高さんは挙げています。特段コメントしてないのですが、納豆を必死にかき混ぜる音とともに芭蕉がその音を楽しんで、音を立ててくれるなと目配せしてる様子が個人的には想像できて、叩き鉢は鐃鈸として曹洞宗ではおなじみだけど台所や食堂にあるわけではないはずのものなのですごく滑稽でおそらく俳聖はここでボケて読む方を笑わせようとしたはずで、その目論見通り何百年を経た後にちっとも俳句が理解できていない奴が(血液内科の診察室の前の長椅子で)ふふふと笑ってしまっています。
はじめて知ったのですが芭蕉は蒟蒻についていくつも句を残していてどうも俳聖は蒟蒻が好物であったようだと開高さんは述べているのですが、「蒟蒻のさしみも少し梅の花(芭蕉句集)」というもののほかに
こんにやくばかりのこる名月 (炭俵)
を取り上げていました。名月のほかあるのは田楽か刺身かオランダ煮かわからぬものの蒟蒻のみ、という情景は正直なんだか想像力を掻き立てられます。開高さんは月見の宴説で私もそれに傾きつつあるのですが、だとしたら好きなものが残ってしまうことほど悲しいことはないと考えるので情景は喜劇的だけど悲しい句に思えます。でも「いったい何があったのだろ?」と病院で会計を待つ間にしばらく妄想に耽っていました。この問題の正解は芭蕉しか知りません。でもって、俳句というのは時間泥棒ってことないっすかね?ってないかもですが。
最後にくだらないことを。
開高さんは文中でなんどか脱線してるのですが、その脱線の中で出てきたというか俳味のある食べ物なのに不思議と詠まれてないものとして「蒟蒻のテンプラ」を挙げています。正直、「蒟蒻のテンプラ」が味を含めてどういうものか全く想像できずにいました。あとで検索すると下味を付けて揚げるらしく、揚げ物不得意なので難易度高そうなんすが、美味そうだなとはちょっと思っちまいました。よく知ってる食材の未知の料理って、惹かれるものありませんかね、ないかもですが。