「翔んで埼玉」を視聴して

たぶんきっとなんどもかいているのですが「笑い」というのは厄介です。大まかにわけて「笑わせる」ものと「笑われる」ものにわけることが出来ます。「笑わせる」のはわりと難しいので技術が必要で、故に落語や漫才では秀でている専門家のことを師匠と読んだりします。もちろんバカなことをすれば「笑われる」ので笑いをとることが出来ます。技術がなくても良いのです。厄介なのはネタが尽きれば他人や他人の住む場所を「笑われる存在」にして笑いをとることもできます。しかしそれは必ずしも誰もが笑える「笑い」になるとは限りません。とある属性を揶揄する笑いは人を傷つける可能性があります。それが蔓延するととある属性を「笑っていい」というように容認する空気を助長させる可能性があります。もちろん可能性があるという程度の問題ですからそうなるとは限りません。そこがすごく厄介です。

話がいつものように横に素っ飛びます。

三遊亭円丈師匠の根多に「悲しみは埼玉に向けて」というのがあります。いまはスカイツリーラインと名乗る東武伊勢崎線にまつわる話です。途中、足立区内の駅で降りる客が埼玉各駅で降りる客を小馬鹿にするような表現があります。東京より埼玉を格下に見るような空気の描写です。もちろん「悲しみは埼玉に向けて」は最後まで聴けば埼玉を笑うわけではなく埼玉に行く電車を舞台にしたよくできた落語になってるのですがって落語の話をしたいわけではなくて、その途中の足立と埼玉の描写に小さく笑ってしまった多摩在住の都民の私は(西浦和に同僚が居るので口が裂けても言えませんが)どこか埼玉を格下に見てるのだな・埼玉を笑っていい存在と思ってるのだな、と気が付いています。なのでほんとは大きな口は叩けませんし、決して聖人君子ではありません。

前置きが長すぎた。

土曜の夜に『翔んで埼玉』という映画をテレビでやっていました。片付けしながらだったので正確じゃないかもしれないのですが「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ」という台詞があるような埼玉県民が東京などから理不尽に迫害されている設定で、解放と自立に向けて闘う(大宮と浦和の仲は決して良くないことも忠実に再現してある)埼玉県民の物語というきわめてマンガ的・SF的な映画だったのですが、郷土愛が描かれ、恋があって、勧善懲悪が前提の親子の対立があって、飽きませんでしたし非常に言いにくいのですがなんどか腹を抱えて笑っていました。「埼玉県人にはそこらへんの草でも食わせておけ」といった当人が恋した相手が埼玉出身とわかると態度を変えてしまうのですがそれらを含め「翔んで埼玉」は「特定の属性や特定の地域に住んでる人をそのことだけで下に見ることのばかばかしさ」を浮かび上がらせてたとも思えました(それが私のようなどこか埼玉を下に見る都民にはブーメランのように突き刺さるのですが)。

『翔んで埼玉』は「埼玉が笑われる映画」ではなく、埼玉愛を前提にした(おそらく埼玉を下に見る都民すらも)誰も傷つけないよくできた「埼玉を舞台にした笑えるよくできた映画」と理解してます。DVDを買うかって言ったらそこまではいかないものの、製作陣にブラボーと伝えたい出来ではあったり。