「ゴリラゲイ雨」雑感(そのダジャレ未満の背後にあるものの怖さ)

繰り返し書いているのですが笑いというのは「笑わせる」ものと「笑われる」ものにわけることが出来ます。「笑わせる」のはわりと技量や技術が必要で、落語や漫才では秀でている専門家のことを芸人とか師匠と読んだりします。笑わせる技量や技術が無い人がやっちまいがちなのは他人の属性や他人の住む場所を「笑われる存在」にして笑いをとることです。しかしそれは必ずしも誰もが笑えるものになるとは限りません。むしろとある属性を揶揄する笑いは人を傷つける可能性があります。それが蔓延するととある属性を「笑っていい」というように容認する空気を助長させる可能性があります。もちろん可能性があるという程度の問題ですから必ずそうなるとは限りません。だから笑いと差別は近接してていくらか厄介です。

東急ハンズという専門店が新宿などにあります。そのハンズ公式のアカウントが「ゴリラゲイ雨」というダジャレにもなっていないtweetをして最近批判を浴びていました。ダジャレにもなっていないので目くじら立てるほどではないと考える人が居てもそれは不思議はありません。

でもなんですが。

おそらく法人としての公式アカウントの担当者がオモシロイこと云おうとしてゲイという固有名詞を持ってきたはずで、その根っこにはゲイ≒笑っていいという判断が無ければ成り立ちません。批判を浴びてさすがにまずいと考えたのか「不快に受け止められた方」という語句を含めた謝罪文が後に出てるのですが、この「不快に受け止められた方」というのも不快の意思表示は想定外であったという判断が無ければまず出てこない表現です。

性について明らかにしていない自社の従業員や顧客が、属性を笑う言動で傷つく可能性があるとは思わなかったのか?もしくは、それらの表現で不快になる可能性があるとは思わなかったのか?という点もかなり気になるものの、法人としての公式のアカウント担当者の語句のチョイスにあらわれた軽蔑に値する意図せざる脳内の開陳と、躊躇することなく出してしまう無意識のほうが(それらは遠回しにある属性を笑いものにすることのに自らは違和感がないことの表明であるので)、個人的にはかなり怖いです。

話はいつものように横に素っ飛びます。

「ついスマホに頼ってしまう人のための日本語入門」(堀田あけみ・村井宏栄・ナカニシヤ出版・2021)という本を去年読んでいます。その本で興味深かったのが「自分が間違ってるとは思わないから辞書を引かない」という人の存在で、今回の件も、私はどこか地続きに思えて仕方ないのです。「自分が間違ってるとは思わない」ので、どうかと思うことでもみんな言語化してしまうし、「自分が間違ってると思わない」ので「不快に受け止めた方」という言葉になるわけで。私を含めて誰にでも間違いは犯す可能性があるから言いにくく、そしてどんな思想でも発言の自由はあるので大声ではいえないのですが、ほんのちょっとでもいいからその言葉が相手方に意図どうりに通じるか、ということを考えて欲しいなとは少しだけ思います。

話をもとに戻して、最後にバカにされそうなことを。

私はセクシャルマイノリティに属します。今回の件は快不快で云えば確実に不快です。ですから、ギャグにもならない軽薄な何も考えていない当該Twitterの発言なんて軽蔑して終わりにすれば楽です。しかしながらそれができません。私は学生時代に割引券目当てであったものの渋谷のハンズの画材売り場にお世話になっていた他、親の抗がん剤治療の際に副作用として痺れ等があった状況下で相談に乗ってくれてパイル地のスリッパを薦めてくれた新宿のハンズの店員さんがいて、忘れられない記憶と恩があります。なので法人としての東急ハンズを心から軽蔑しますが、店員さんや現業部門は別と思いたいところがあります。なんだろ、パートナーからDVを受けつつ「あの人、時々やさしいの」的な踏ん切りがつかないのにどこか似てて、明快に嫌いになれず、ちょっと苦しいのですが。