笑われる恐怖

「笑い」というのは厄介です。大まかにわけて「笑わせる」ものと「笑われる」ものにわけることが出来ます。「笑わせる」のはわりと難しいので技術が必要で、故に落語や漫才では秀でている専門家のことを師匠と読んだりします。もちろんバカなことをすれば「笑われる」ので笑いをとることが出来ます。技術がなくても良いのです。ネタが尽きれば他人を「笑われる存在」にして笑いをとるようになります。しかしそれは必ずしも「笑い」になるとは限りません。
フジテレビのバラエティ番組で保毛尾田保毛男という同性愛者を基した・揶揄したキャラクタがいました。もちろん演じてる本人は同性愛者ではありません。笑われる対象はその属性を持つ同性愛者です。そのキャラクタと私は容姿や振る舞いはかけ離れてるのですが、そのキャラクタの存在を知ってから同性愛者というのは笑われる存在なのだな、という意識・恐怖がずっとあります。私は男子校にいながら交換日記をするような相手がいて、幸いなことにその存在を身近な周囲は知ってても笑ったりはしませんでした。しかしどこかでびくびくしていて、あの頃に戻りたいかといったら絶対そんなことはありません。私が笑われるのは耐えられますが、相手が笑われるのは耐えられそうになく、いまでもその恐怖はあんまりかわりません。今週、28年ぶりにそのキャラクタが復活していたことを知ったのですが、くらーい青春の一コマが戻ってきた感があります。
いわゆる少数派を「笑いのネタ」にするということは、まず多数派の公然たる差別の助長になりかねず、またテレビ自体が社会的浸透力が大きいのである属性の少数派を「笑っていい」というように容認する空気を助長させる可能性があります。もちろん可能性があるという程度の問題ですからそうなるとは限りません。表現の自由があるというのを理解しつつも、勘弁してほしいというのはあります。この切実さはおそらく当事者ではないと理解されにくいような気が。
批判が起き、その批判を受けてフジテレビの老練な社長が「もしその時代が違っていて、不快な面をお持ちになった方がいたことは大変遺憾なこと」という発言をしていたのですが、社長、違うんすよ、いまだからいけないんじゃなくて、あの頃のフジテレビは裸の王様で忠告してくれる人が居なかっただけで、前もほんとはまずかったのではないでしょうか。私は28年前は笑われることをしてないのに笑われる恐怖と隣り合わせで、びくびくしてました。今も昔もこういった意見は少数のはずで、とても絶望的になってくるのですが。