笑われる存在なのではないかという恐怖のこと

前にも書いたのですが、私が10代のときに、とんねるずの番組で同性愛者≒笑っていい存在という認識が広まってしまった気がしてならず、同性を好きになって以降、なんにも悪いことをしていないけどその属性があることは常に笑われる存在なのではないかという恐怖と隣り合わせで生きてきました。このダイアリーは匿名ですからばんばん書いてますが、ほとんど他人には言わずに来ていています(文字にするとほんと暗い人生だなあ)。異性に住んでいた街の駅までつけられたり異性に好意を寄せられてもそれとなく交際を断ったら金銭にまつわるうわさを勤務先で流されたこともあります。同性の相手がいることを云えたら楽だよなあ、と思いつつ怖くて云えてません。「要は勇気がないんでしょ」と云われればそれまでですが、そういわれても躊躇するくらいには笑われるということは恐怖でしたし、いまでもあんまり変わりません。
16日付でフジテレビが謝罪文をだしていて、興味深かったのは文中に「揶揄する意図はなかった」というのがあって、揶揄してると思ったほうを、それはとらえた方の解釈であって、と予防線を引いて云ってるのに等しく感じられ、批判が生じることを想定してないし批判されるのは本意ではない、というのがなんとなく読み取れた点です。つまるところ私のようなのは「意図はなかった」表現に影響を受けてしまったわけで、傍からみたら笑えるほど哀れな存在かもしれません。もっとも本人はあんまり哀れだとは思っていませんが。「長年に渡り与えていた印象」を含めて反省しているのは好感持てたけど、いまさらだよなあという気はやはりします。暗い青春帰ってきませんしって、てめえのことはともかくとして、「ある属性を笑いものにしてもいい」という空気は簡単には変わりませんし。なに一つ解決しないような気が。
10代からこっち、とんねるずの番組をみようともしなかったし、まずとんねるずがテレビに出ていたらチャンネル変えています。おそらくこの先も同じです。めざましテレビを観なくなったのでフジテレビにチャンネルをあわせることは稀です。個人的にはなんの期待もしていません。ただ無駄に委縮してしまうことは好ましくないので委縮せず表現活動をフジテレビは続けてほしいと思います。