この数か月で読んだ本のこと2もしくはちょっとした後悔

恥ずかしながらなにかをしながら別のことをする、ということが出来ません。電話を受けながらメモをしていたとしても文章では書けず重要なキーワードをメモしてあとで要旨をまとめてますし、えっちなことをしながら頭の中で素数を数えたこともありません。レシピ本を開きながら料理することもできませんから分量などは別途メモして冷蔵庫に貼っておき、流れはたいてい頭の中に叩き込んでいます。平野レミ先生のように喋りながら料理することもできません。遊びに行った相手の台所を借りてるとき、弱火でコトコト煮てるとかなら別として料理中に話しかけられると声のする方向を振り向いて包丁を投げて待つように威嚇しますって、うそです。でもあんまりちゃんとはきいていなかったり。
つまるところ、器用ではありません。
食べながらなにかをするというのもあまりできません。食パン片手に新聞を広げていてもひっかかる記事があって熟読してるときは口は止まってます。なにかを喰いながらなにかを読むことが不得手のようです。くだらないことを書くと、当然マクドナルドに入ったとしても本を読むことはありません。長年の謎なんすが、あそこで本を読んでいる人たちは、手についたフライドポテトの油をどうしてるのだろう、ってのがあるのですが、観察しようと思いつついつも忘れてますって、話がずれた。はてな今週のお題の読書をひっぱると、たとえばオシャレなカフェで持ってきた本を読む、というのもありえません。そもそもコーヒー片手に本を読むこともほぼないです。たぶん本に熱中して、コーヒーが冷めても気づかない哀れなやつだったりします。
新潮文庫から「やってみなはれみとくんなはれ」というのが出ています。執筆者が山口瞳さんと開高健さんで、つまるところ寿屋=サントリーに関わった作家2人による私小説っぽいところもあるサントリーの社史です。開高さんの執筆した部分は以前別の文庫に収録されていたので既読だったのですが、今夏に見つけてから通しではじめて読みました。パンの上に羊羹をスライスして食べることを含め事実は小説より奇なりとはよくいいますが、ふつう、社史というのは創業者(マッサンでいうところの鴨居の大将)や二代目を悪くは書きませんがいわゆる大阪の言葉の「へんこつ」なところを含め良いところだけでなく悪いところも容赦なく書いているせいか、(詳細は読んでいただくとして)架空の小説を読んでいるかのようでした。読み終わってからこの本ばかりは礼儀として器用なことができなくてもトリス片手に呑みながら読むべきだったかな、と気がついたものの、あとの祭りであったり。