納豆の炒飯

関東ローカルな話で恐縮なのですが、おいしいシウマイ崎陽軒という横浜駅崎陽軒のCMを小さいころからずっと聞かされてときたま食べて育ってるので、崎陽軒のシウマイ=おいしいという図式が頭の中に長いことありました。いまでも崎陽軒のシウマイをおいしいと思っています。ところが、かつて仕えた京都出身の上司が崎陽軒のシウマイを食べたところあまり評価しませんでした。その経験から、味覚は育ってきた環境によって差異があるのを再認識したと同時に、おいしいというのは刷り込みと思い込みが何割かあるはずと思うようになっています。たぶん以前に似たようなこと書いたかも。

いつものように話が横に素っ飛びます。

開高健さんの著作に「やってみなはれ」(新潮文庫・2003・「やってみなはれみとくんなはれ」所収)というサントリーの社史を追ったものがあって、その中で創業者の鳥居信治郎の舌についての記述があります。食パン一枚持って雲雀丘花屋敷の自宅から大阪市内の会社に出勤するとにこまかく切ったようかんを載せ食べたほか、コロッケに砂糖とか、ビフテキマーマレードとか、開高さんの記述をそのまま借りるとへんこつなところがあったようで。もっとも

「旨おまんのか、そんな物」

と尋ねると

「やってみなはれ」

といった

山口瞳開高健「やってみなはれみとくんなはれ」P208

という具合に、具体的な判断は避けています。ビフテキマーマレードは想像がつくのですが、食パンにようかんとコロッケに砂糖は想像がつきません。読んでから一度だけコロッケのほうはやってみようかな?と考え、コロッケに(よくやる中濃ソースにポッカレモンにマスタードを混ぜたものではなく)砂糖を載せようと手をのばしかけたのですが、逡巡した挙句に引っ込めています。なんだろ、おいしいというのは刷り込みと思い込みが何割かあると書いたのですが、コロッケに関しても私の場合は刷り込みと思い込みが強固なようで。そのときは食べる前からそこから抜け出すことができませんでした。

最近ずっとこっそり追っている「着せ恋」の主人公のひとりである喜多川さんは、チャーハンのソーセージとから揚げと納豆載せにハマっています。それは正直「旨おまんのか、そんな物」ではあるのですが、喜多川さん式はムリだけどソーセージをチョリソーにして切ってネギと混ぜての炒飯はアリかなと考えてこの週末作っていてこれはあんがいイケました。そのときそこで余計なことを云わなければよかったのですが喜多川さんの炒飯が頭にあったので、つい、納豆の炒飯って作ったら喰う?とそれとなくそのとき訊いたら変な顔はされず反応は悪くなかったのでそのうち作ると返答しちまってます。ただ正直なところ納豆を炒飯に入れたことも納豆の炒飯も食べたことも一度もありません。「旨おまんのか、そんな物」とまではいわぬものの、美味しいと思う炒飯に関しての刷り込みと思い込みが強固なせいか載せるのも混ぜるのも抵抗があります。抵抗はあるものの続けて視聴している「着せ恋」がどちらかというと新しいことに挑戦するものであるせいか、ちょっと挑戦してみようか、という気にはなったり。物語ってそういう気を起させることってないっすかね。ないかもですが。