この数か月で読んだ本のこと1もしくは答えのない問題(再追記あり)

何回か引用しているのですけど開高健さんの「玉、砕ける」という短編小説があります。香港で食事しながら友人に

白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ(殺せ)!』、『ターパ(打て)!』、『タータオ(打倒)!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。
開高健ロマネ・コンティ・1935年より「玉、砕ける」 (文春文庫1981)

と質問します。莫談国事といい食事時に政治の話をしないほうがいいと苦笑いされつつ、その友人は老舎という作家の話をしはじめます。革命後の知識人の生活についての問いに答えずに老舎は三時間にわたって田舎料理について、それがどんな鍋で、どんな味で、どんなふうに泡がたつかなどを微細生彩に模写した話をし、きわめて暗示的であったと書いています。なお小説の最後で友人から老舎が死んだことが告げられています。
今秋手に入れることが出来た「文学の方法」という東京大学出版会から20年以上前に出された本の、巴金の「随想録」について書かれた刈間文俊教授の文章に、文革が終わるまでの中国の文学や言論などの状況等が書かれていました。文革が終わるまでの中国において典故として毛沢東語録を人々は引用し、美辞麗句が氾濫し、自分の感覚でとらえた事実を描き出す模写は疎んじられていたことが述べられ、と同時に文以載道≒荷車に荷物を載せて道の上を行くように文章は道(道徳的なもの)を説くべきという発想が以前からあるのですが、抗日戦争以降は文以載道が民族の大義と革命という錦の御旗を手にし復活し肯定されるようになった、ということにも触れられていました。当然読んでいる最中から「玉、砕ける」が頭の中をちらちらしていたのですが、刈間教授の文章を読むうちに、つまるところ目の前のことを微細生彩に模写してはぐらかす老舎の方法は生き残れないことは老舎自身も自覚してたかもしれず(それでもなお表現せずにはいられなかったのかもですが)、質問に関しては選ぶべきと期待される椅子はやはりひとつしかなかったし、どちらの椅子にも座らずにまぬがれることなど現実的にできなかった、ということを理解しました。
「玉、砕ける」が書かれていた当時のことはうっすらとは承知していたつもりですが近現代中国史・中国文芸史は疎く、あらためて文化大革命当時の状況を知ると、答えがないことのしんどさをふたたび突き付けられた気がしました。もちろん私は文学とは遠いところにいるし、小説家でもありません。ただ私は上記の質問を高校時代に読んで性に関して厄介なところがあって自分の問題としてとらえててどうすればいいのだろうとずっと考えていて(もしかして老舎のように問いに答えず目に見えることを述べ続け逃げることが上策だとおもっていたので)最初から答えなどなかったことを知るとやはりいくらかしんどいです。もちろん現実的に問われてないだけ・椅子に座ることを求められてないだけ・殺されそうな状況ではないだけ、楽なんすが。
文学がなにかなんて知らないし語ろうともおもっていないのですが、どちらの椅子もに座らずにまぬがれぬことができぬのなら、射殺されるまで目の前のことを生彩にとまではいかないまでも語りつつ精一杯生きていたいと思うようになっています。