本のカバーのこと(もしくは本の扱い方のこと)

東京の感染状況はかなりシビアなのですが、今日も今日とて少しくだらない話を書きます(いつもくだらないことばかり書いていますが)。

最近「開高健は何をどう読み血肉にしたか」(菊池治男・河出書房新社・2020)という本を読みました。著者は開高さんの晩年の紀行文の「オーパ!」の担当者+旅行に付き添った人物で、開高家の人々が亡くなったあとに開高健記念文庫を立ち上げて開高家の蔵書の整理を担当しています。この本には自らの経験談や菊池さんの目から見た開高健像が触れられているほか、蔵書整理担当者として開高家の蔵書を整理しながら開高さんがどういう本を読んでいたかについて書かれています。ただし開高健作品を読んでいればより深みにはまるのですが・つまり開高健作品を読んでいないとちんぷんかんぷんに近くなりかねないので、いくらか一般受けしない本です。ただし作家に対する敬愛からくる熱量と自らの経験談の筆運びは良い意味で並大抵ではないです。

個人的に興味深かったことのひとつは、蔵書の中に「ベルリン日記1934-1940」(ウイリアム・シャイラー著・大久保和郎・大島かおり訳・筑摩叢書・1977)や「ヒトラージョーク‐ジョークでつづる第三帝国史-」(関楠生編訳・河出書房新社・1980)などのナチスドイツに関連する本があり、また生前に中編小説の(勉強嫌いの青年ヒトラーが主人公の)「屋根裏の独白」の続編を書くことについて宣言していたことも今回知ったのですが、ワイマール体制からファシズムに移行するドイツについてずっと注視していたっぽい点です。詳細は本をお読みいただきたいのですが。

いつものように話は素っ飛びます。

菊池さんは本の冒頭

開高健は蔵書家ではなかった。どころか愛書家でもなかった

と書きます。この文体は開高さんに影響受けたのだろうなと想像するのですがそれはともかく、続けて

これぞと思う本は読む前にカバーをはぎとり、帯ごと捨ててしまう。

さらに続けて

傍線を引いたり書き込んだりすることはしないが、ところどころページを折り込む癖があった。それも、ページの耳を折るというような可愛らしいやりかたではなく、ページの半分を折り込んだり、数ページを一緒に折りこんだりする。

と紹介し、本を読み倒す覚悟のようなものが伝わってくる、とも述べています。ただし、なぜそこか、なんのためにか、とかは模糊としたまま、とも。また、折り方も右上角、右下角、左上角、左下角、とバリエーションに富んでいたようで(P20)。

私はページを折ったりはしませんが買って読み込む本で気になったところは不要なレシートを挟み込んで置くので本から一反木綿が複数はみ出てるような見た目は麗しくない光景になります。また、即はカバーを捨てはしないものの、何度も読み込んでるうちに文庫などはページが反り返って来て合わなくなるのでそうなってくると捨ててしまいます(はぎとったカバーはまとめておいて、なんらかの拍子にそれが崩れてああめんどくせえってすててしまったこともあるのですが…って書かないでもいいことを書いている気が)。

はてなハイク(というはてなSNS的サービス)があったころに本棚を公開してる人が複数いて、キレイに並べられた本棚に整然とカバーがかかった本が並ぶ画像を見て、複数の一反木綿がはみ出てる単行本やカバーのない文庫本があるおのれの本棚をチラ見して、彼我の差にうなだれてしまったことがありました。でもって、開高さんが手許に置いておいた本を美しい状態で保存していなかったことを知れたことが作家と作家じゃない私を同列に置くのはおこがましいと思いつつ同類が居た気がしてならずちょっと勇気づけられてます。

もっとも、なにものでもないやつが愛書家でないことは決してえばれた話でもないかもしれなくて、書けば書くほどなんでもないやつが単に本の扱いに関して雑であることの自慢もしくは証明をしてるだけになってしまいそうなので、このへんで。