蜜の味

人の不幸は蜜の味っていうことばがあります。実際、ほんとに蜜の味がするのかはわかりません。出来れば不幸の話ってのを聞きたくもなくなるべく避けて生きてきたので、そんなもんなのかなーと思いつついまいち理解できてません。ただそういうのを味わいたい欲求の持ち主の人っているんすよ。たとえば女の人はゲイや男になれませんよね。男の人はレズや女になれませんよね。だから、自分と違う性別の人の不幸のエロい物語・陵辱ものなんかは自分に降りかかってくるはずの無い話として安心して性暴力の話を傍観者としてみれるんすよ。陵辱もののゲームとかマンガがあることを考えるとそういうの、好きな人多いと思います。で、物語だから他人の不幸を味わう上に、おもいつきで小姑的批評まで言えるんだからそういうのが好きな人って蜜をなめられるほかに不幸な物語って楽しくてたまらないはず。そういうのが好きな人はその人が不幸になる以外救いの道はないっす。不幸になってはじめて自分が楽しんでたものがどういうものか、残酷だったか、理解できるとおもう。でもその想像力の無い人・機会の無い人は永遠に人の不幸を楽しみ続けると思います。で、傍観者として人の不幸の物語を楽しみ続ける限り、マジでそういう人は救いはないと思いますよ。救われなくたっていいと思ってるフシもあるでしょうけど。
別にそういうのが好きな人が居ても、道義的にどうこう言える筋合いの話ではありません。その人にとって【人の不幸は蜜の味】なんだからしょうがないはずっす。そもそも不幸な物語が好きなのどこがいけないのっていったら、だれも答えられませんから。個人的に「いやだなー」とおもうだけ。 で、救いようが無い、ってかいたのは、エロと残酷さって耐性ができるからっす。なれちまうと次へ次へと残酷な物語・エロい話を欲しちまうんすよ。たぶんその欲は尽きることなんかないんじゃないっすかね。だから、その手の表現物は尽きることは無いと思う。
で、残酷な物語、エロい話で虐待されそうなのはたいていイケメンとか美女、子供なんすよ。たぶんそういう人の中では、イケメンとか美女って都合のいい人形であって人間扱いされてないのかもっすけど。


東京都ではいま築地市場の移転問題が焦点のひとつなのですが、そのほかに陵辱物を含めたエロ系の性の表現物を東京都においてはすこし規制しようっていう話があります。「18歳未満として表現されていると認識されるもの」を「非実在青少年」と定義した上で、漫画やアニメなどで「非実在青少年」を「みだりに性的対象として肯定的に描写」している図書類のうち「青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」を不健全図書に指定できるようにするように青少年育成条例を変えよう、って案が出てます。また非実在青少年を対象にした性行為を描写した作品は青少年に販売しないよう業界に自主規制を求めることになってます。で、いまのところ都議会では今会期での成立はさせずに一応継続審議扱いになったのでまだ決まったわけではありません。


すこし前に児童ポルノの規制の話がありました。ポルノであっても実は表現の自由ってものに保護を受けうるものだったりします。でも実際に児童ポルノ作成時に児童虐待の可能性があるので、児童ポルノ作成者に罰則を強く与えることで、発生しやすい虐待を抑えたいので規制がはじまりました。で、都条例の規制対象は画面や紙の上での話で未成年のイケメンや美少女のキャラは虐待されてるけど、実際にそこで被害がおきてるわけではありません。規制したくなる気持ちがまったく理解できないわけではありませんがどこか滑稽でもあります。


で、「性的対象として肯定的に描写することで青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害する」可能性があるから非実在青少年を題材としたわいせつ表現物を規制するっていうのは、一見もっともらしくきこえます。でも、ほんとに見せたくないのなら、それこそ堺市の図書館のボーイズラブの話と同じで学校や社会や家庭内で教育上よくないものについて、教育の一環として【そういうものをくりかえし見ちゃいけない】ってなことをいえば済む話なんじゃないかなあ、と思うのです。


性という人間の本能のようなものに対して人間自身の品位が反発することによって羞恥心って形成されます。それが性行為非公然原則とか性の非公然原則になります。形成途中に周囲から品位について教えられて性器を丸出しで街を歩かないし性に関して公然と振舞わないしセックスを公開しようとしたりはしません。架空の世界は違うかもだけど、現実の社会はそういうふうに成り立ってるんだよ、でもって、架空の世界は違うかもだけどかわいいと思う存在であってもそれは人形じゃないし刃物で切れば血が出る存在・前戯無しで穴に突っ込めば血が出る存在なんだよってなことをちゃんと説明すれば済む話だと思うし(青少年の段階でそれを知って性に関する健全な判断能力の形成されていれば)救いようの無い人がちょっとは減るんじゃないか、って思うのです。で、なんで繰り返し見ちゃいけないか、っていったら、エロは耐性ができて、どんどん残酷性や悲劇性、刺激性を求めちまうからです。
本来、明文化されてなくてもみんなが持ってた架空と現実は違うというコンセンサスのようなものが消えてなくなりつつあるのだとおもいます。だから条例案改正の話が出てきてるのでしょう。で、社会や家庭がやらなければならないことをすっ飛ばして法規範として整備して表現というおおもとから規制しようってのにそこらへんすごく違和感を感じるんすけど。



規制の必要性をなんとなく理解をしたくなる部分はあって、それは繰り返し繰り返し流れるネガティブな表現なんすよ。同性愛者等がなんとなく股が緩いとかって印象をもたれやすいのはなんでなんだろ、って思うのですが、やはり繰り返し繰り返しそういう表現が流れてるのかなあ、と。なんとかならんかなあとはちょっとは思うけど、でもそこらへんやっちまうと暗黒社会な気がするんすよね。
まじめな話を書こうと思ったのですがなんかいまいちまとまらないししんどい話になっちまいました。すいません。