東海道中膝栗毛って原典は下ネタがおおくて、(そうは桑名の焼き蛤の)桑名の先の伊勢のどこかでやじさんかきたさんは、お店の若い女の子に向かって君のはまぐりほほうが、ってなことぐらいいいます(意味のわかんないよい子はわかんなくていいです)。
で、やじさん喜多さんは陰間茶屋勤めとひいき筋で、いっしょに寝るような仲なんすが、世の中に広がってる東海道中膝栗毛って、蛤の件も含めてそういうのが一切ないんすよね。長いこと、あの二人はなんで伊勢まで行ったんだろ、ってのが謎だったんすけど、おおもとを知って教育上よくないからその記述がないのかー、と腑に落ちたんすが。


社会通念上、性ってのは非公然性を求められます。ですから、人前では君のハマグリのほうが美味しかろう、なんてことはいいませんし、普通はパンツをはきますし、性行為を公開をしません。また二人でするセックスは相手の同意が重要です。現行法の社会では、同意なきセックスは犯罪になりかねません。それら社会の通念を取得してく時期に強姦や強制わいせつを含む過激な表現ってのを無条件に子供が見続ければ、その子の性の非公然性やセックスにまつわる観念がゆがむ可能性ってのは肯定もできませんが否定もできません。過激表現を教育上未成年にみせるべきではない、ってのは(感覚的には)判らないでもなくて、過激描写の流通の規制をする都条例の必要性ってのは理解できないでもないのです。でも、(くりかえしになりますが)見せる見せないの規制を画一的に行政がやって良いのか、って言うとどうかな、と思いますし、あるべき性道徳を行政が誘導する、ってのは思想統制みたいなもんだと思ってるので、ちと怖いと思ってます。で、歌舞伎の桜姫東文章は襲った釣鐘権助に姫様が恋する話でもあるんすけど、強姦行為から恋がはじまると言うのは強姦行為を不当に賛美する部分がないとはいえないのでたぶんマンガにすると規制に引っかかります。その差はなんだろ、って考えると今回の条例の抱える滑稽さのひとつが理解してもらえるかもしれません。そのうち修正が図られるかもっすけど。


他人の同意を得ない一方的なことってのは、楽であったりします。相手をもののように扱う、っていう作品もあったりします。ただ、現実に相手の前に裸で立って、セックスが人間関係の延長線上ってことに気がつけば、人をもののように扱うことの未熟さが見えてくることがあります。でも、自分の快感のために人を都合よくもののように扱いたいってのは、ひょっとしたら案外誰もが持つのかもしれません(じゃなかったら代替品としてのバイブやTENGAが売れないでしょう)。人というのは性におぼれやすくてセックスの場面で他人まで思いやれないことがあるという、その未熟さをえっちなメディアを通して直視するのも、実は未成年のうちにやっておいたほうが良いのではないか、なんて思うのですけど、それはともかく。


表現の規制ってのはいまにはじまったことではなくて、教育上よくない、っていう配慮からやじさん喜多さんみたいな過激でなくても物語をゆがめちまうこともあるわけで、歴史は繰り返すっていうかまたそういうことろへ戻ってくのかな、ってなことを思ったよりあっけなく都条例が成立したことをつたえる今週の新聞の報道を見ながら考えてました。
ただ都条例が成立しても、えっちなメディアは、誰かが手に入れて親しい間柄の友人を介して夜に未成年の間にこっそり流通するんじゃないか、なんて思ってますが。