ある絵画展のこと

すべての男がそうだとは思えない・思わないけど、男の場合、えっちしてるときにかわいいとかそういうのではなくて、食べちゃいたいとか骨が砕けるほど抱きしめたいとか、人って正気でない・変な狂気があるときがある気がしてならんかったりします。ひとの、そういう側面をまったく理解できないわけではないです。で、変な狂気をひとが持ってる場合、それを実行に移すかどうかは別問題として、たとえば首輪とか、凌辱ものとか、絵画に描くのは別にかまわないとは思います。マンガでもエロDVDでも、男性・女性を対象とした、凌辱ものや拘束もの、SMというのはあって、内心そういうことをしたい人はそこそこいるんじゃないかな、と。ただそれを、公然と陳列することには抵抗がある場合が多いはずで、というのは性という人間の本能のようなものに対し、生活するうえである程度の品位というのがやはりあってそのせいで反発することによって羞恥心って形成されるからで、それが性行為非公然原則とか性の非公然原則になり、人は性に関してあまり表に出すようなことをしなくなるからっす。たとえわいせつ性のあるものについてそれが芸術と名をつけたとしても、芸術かどうかというのはおそらく一部を説得できても誰もを説得できないことが多いのはそのためです。


六本木に森美術館というのがあって、そこで比較的きわどい作品群が展示されています。たとえば展示物のひとつには女性をモチーフにしてるのですが、想像上の動物というか怪獣のようなものの先端の一部が衣のしたのきわどいところに侵入するようなものがあったりします。葛飾北斎の海女と蛸という作品があるんすが、ちょっとそれに似ています。北斎と違うのはもちろんすべてを描いてるわけではなく、みてる人の想像力で補完させるようなものがあります。
で、作品において脳内の妄想というか、たぶん「あなた、こういうこと、したいんじゃない」というみているほうの、内なる攻撃性を問いかける意図を持つ場合、作品として成立はすることがあるのではないかと思っています。絵画にせよ映像にせよある種の暴力的な・害悪的なことを描き出すことによっていまの世にある暴力や害悪を鏡のように突きつけることがあるからです。もちろんすべての人がもってるものではないから、理解はされにくいはずです。その点、拘束した女の人にたいしてそういうふうにしたいと思うことが無い・拘束されて穴にへんなのいれられてぐりぐりされたりとかそんなことされたらいやだなあと思っちまうような妙な人間だからどういう意図でその絵画が描かれてるのかわからず、ああこの作者はこういうことをしたいのかな・他人への問いかけなのかな、と思った程度で、あんまり深くは考えなかったのですが。でもってそれが芸術か、っていうと正直判りません。そもそも私は芸術がなにかってのもわかりません。ただおそらく春画から続く日本の絵画というのはある種の妄想に支えられてる部分もあるんだなあ、ってのはいまさらながら痛感させられます。


で、現在市民団体からこの展覧会がやり玉にあげられています。いくつかの作品が女性蔑視につながるのではないか、っていう論点からです。
侮蔑表現問題ってのがあります。アメリカの話ですけど、黒人差別的侮蔑表現を蔓延させたら直接侮蔑の対象となった黒人のみならず広く黒人一般を蔑視する環境につながりはしないか、っていう考え方で、これがポルノ規制にも関係していて、女性が性的な尊厳を傷つけられてるようなそんな表現が蔓延したら無意識のうちに性における男性至上主義や女性蔑視が形成され女性差別を一層固定化させるのでは?っていう問題提起がありました。こういう考え方がアメリカでは性的表現に法的規制をっていう主張の、バックボーンになってた記憶があります。正直、ちょっと傾聴に値するんじゃないか、などと思ってます。判りやすい例でいえば、性モラルの低い存在として描かれた同性愛者のマンガばかり見てたら、同性愛者ってのは性的モラルが低いんじゃないの、的な変な固定観念ができちまうような。でもっておそらく今回の作品群はその侮蔑表現ってのを促進しちまうところが無いわけでもないような気がします。
ただしこれら侮蔑表現を無くすべき、というのをおおてを振ってやっちまうと、ちょっとまずいのです。表現というのはおそらく社会に影響を与えます。わかりやすいのはヒトラーによるユダヤ人攻撃の言論とドイツ国内のユダヤ人排斥の動きで、おそらく侮蔑表現を無くすべき、という方向に流れやすいのですが、たとえ表現がある種の害悪を産んだとしても本来的に表現というのは基本的に受け取る側にある種の働き掛けをする力を持ち合わせているわけで、害悪の恐れがあるからと言って表現が一定の役割を果たすということを認める上で表現について過度の規制しちまうと、それこそ表現の自由の自殺行為にもなります。また侮蔑表現の根絶というのはつきつめれば「○○を××にとらえることは悪いことである」という概念・価値観の(内心は本来自由であるはずなんすが)思想統制になりかねないのです。ここらへん、表現の自由というのとからんで歯切れがわるくなり、このての話どうしても脳内で結論がでなくて、思考がぐるぐるしちまうのですけども。


作者や森美術館がなにを考えてるのかは不明ですが、みている方は絵とはおそらく関係ないほうに思考が行っちまったり。それが妄想の絵の力なのかもしれないのですが。