遠ざけても

チャタレイ事件(S32・3・13刑集11・3・979)というわいせつに関する有名な判例があります。大学の刑法各論の授業ではたぶん触れる判例です。でもって「人間の性に関する良心を麻痺させ理性による制限を度外視し奔放、無制限に振る舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵してる」ってなようにわいせつ物(この場合は小説)について書いてるんすよね。はるか昔の判例なのですが個人的に腑に落ちる表現なせいか、そういうこともあるだろなー、なんて思いました。裁判官も人間なんだなー、なんて思わせる文章です。しばらくしてラブホテルでえっちぃ画像が流れるチャンネルを見せられなんとなく興奮してきて、隣にいた相手にシャツのボタンを外されながらされるがままの状況で脈絡なく思い出して、感覚的にああそうだよな、なんて思ったことがあります。


話をもとにもどすとこの裁判官のもつわいせつ物に関しての見解のようなものは多くの人の中に(たぶん体験的に)共有していてわいせつ物を多くの人が「かくすべきもの」というか、排除に向かわせる空気のようなものの原因になるのかなあ、と考えます。大人ですらわいせつ物を見てその可能性があるのなら未成年ならなおのこと、っていうのもそこそこ説得力を持ってくるような気がするのです。
ただ、わいせつ物が人間に与える影響・青少年に有害かどうかについて「危険を包蔵してる」認識がある程度あっても科学的な証拠があるのかっていったら怪しい。タバコが人に与える影響のように科学的に根拠があれば話は別としてもないのなら実質的害悪が発生する可能性がある、とは積極的にいいにくい(でも実質的害悪が発生しないともいいきれないすが)。表現の自由を大切にする憲法の関係上(この国の憲法表現の自由を大切にしていて、判例上それを規制するためには実質的害悪が発生する蓋然性が高いかどうかってのがいくつかある判断項目のひとつになってくるのですが)、実質的害悪が発生する蓋然性が低い以上は危険を誘発する可能性だけで表現物を規制していいのかっていったらちとまずいというか、分が悪い。でもなんとなく空気の問題を「人間の性に関する良心を麻痺させ理性による制限を度外視し奔放、無制限に振る舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵してる」のならば、青少年の目に触れないにこしたことはない。そうなるとやはり、危険を誘発する可能性があるから青少年から「遠ざけておく」(いわゆるゾーニング)っていうのが、いちばん妥当のようなきがするのだけど、現実的なのかなあ、なんてことを条例を審議する都議会議員でもないのに最近ちょっと考えてました。


というのは遠ざけたってどこかエロチックな空気を微妙に追いかけてくのが、十代のような気がするんすけども(や、それは俺だけかもしれませんが)。ほんとは十代に売ってはまずそうなえっちぃ本であっても、(まずたいてい家の近くではない)売ってくれる店、ってのはみんなそこそこ知ってましたしこそこそそういう店で勇気を出して買ってました。ただそのときのことがずっと刷り込みがあるせいか、いまでもえっちぃ本をレジへ持ってくのはなんとなく勇気が要りますです。十代のころの性のことって、そういう意味でもその後の人生を左右するような気がします。
余談ですが10代のころに同性同士でもってのがそこそこいるっていうことが判って妙に安心したんすよね。その点でもエロだからとか教育上よくないから、ってんで規制はしては欲しくない、ってのはありますです。