寂聴さんの話

小説ってのはなんだろう、ってことを文学部に行かなかった人間なのでたまに考えます。


すくなくとも小説を読んで引っかかることってけっこう多かったりします。井伏鱒二の黒い雨は社会人になって引っかかったのですが、高校生のとき意識してたのは開高健でした。

白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいかという問題である。二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ(殺せ)!』、『ターパ(打て)!』、『タータオ(打倒)!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。史上にそういう例があるのではないだろうか。数千年間の治乱興亡にみちみちた中国史には、きっと何か、もだえぬいたあげく英知を発揮したものがいるのではないか。
開高健ロマネ・コンティ・1935年より「玉、砕ける」 (文春文庫1981)

開高健というひとが文化大革命の頃に香港で友人の記者に尋ねた疑問です。馬馬虎虎といって、馬でもなく虎でもない、っていうのがあるのですが、それもまずい。困ったその記者はあるとき中国の作家の老舎が革命以降の文学者の暮らしぶりに対して尋ねた返答として三時間にわたって微細かつ生彩をきわめて語りだした中国の地方の料理の描写の話をし、それにしびれた話をしだします。それに何か強烈な暗示をうけたような気がした、と開高さんは記します。また

二つの椅子のあいだには抜道がないわけではないが、そのけわしさには息を呑まされるものがあるらしかった。イギリス人はこの事を“Between devils and deep blue sea ”(悪魔と青い深海のあいだ)と呼んでいるのではなかったか?

と語っているのですが、これが先の問題設定の答えかっていうとそうではないです。しかしその老舎の話というのが「Between devils and deep blue sea」の状況における人の行動に関して高校生の私は身の処し方として老舎の話はひどくひっかかったのです。ひょっとして悪魔が椅子に座って手招きしてるその状況下で「料理の話」をすることもまた文学なのかもしれませんが。
また開高さんの発した疑問というのも私にとってひどく引っかかる疑問でした。潜在的に自分も考えていたことが小説の言葉と合致してたときにひっかかたのでしょう。別にそのとき進学に悩んでたとかそういうわけではないものの、似たような経験をして、あーこのことだったのか、なんてこともありました。なにかしらの選択を迫られるときとかに未だにたまにこの一節が思い浮かびますし、過去を振り返れば青い深海の中へ落ちないように選択してきたつもりのものもありますし、相手がしびれるかどうかは別として老舎と同じく「料理の話」をしちまうことがあります。私の場合は老舎ほどすごくはないので、それが文学になることなんてないですが。


小説って何?っていう小学生みたいな疑問を思い出したのは毎日新聞のある記事を読んだからです。ケータイ小説を書いた女性作家が抱えてる書くことにたいするある悩みへの、寂聴さんのこたえなんすけども。

瀬戸内 自分の書いたものを深めていけばいい。小説は読んで、「この気持ちは私も経験した」「これはあの人の経験していることだ」と感じるような、非常に親しいものなのです。
対談:『源氏物語』題材にケータイ小説 ぱーぷる瀬戸内寂聴)さんとChacoさん
10月2日付毎日新聞夕刊より転載

寂聴さんが毎日新聞で対談をしてて帰宅途中の電車の中でちょっと読みふけってしまい、小説ってなんだかまったく知らない文学を知らない人間からするとよく判っていないパズルのピースのひとつを今更ながらはめて貰ったような感じっす。
ただ、小説で「この気持ちは私も経験した」なんて思う人は多くはないでしょう。親しいかどうかもわかりません。でも老舎や開高健が直面したであろう問題ってのは自分にとって引っかかる問題で身近な主題で答えの出ない難問で、小説によって少なくとも私の前には生々しく再現されます。たぶん、寂聴さんの書いたものも、つまり寂聴さんや源氏の周囲が抱えた問題ってのもみしらぬ誰かにとって「生々しく再現される」ものなんだと思うし、小説ってそういう側面があるんだろうな、と今更ながら思います。


なんというか、新聞の対談は個人的には腑に落ちるものがあったんですけども。


余談ですが、興味深いな、とおもったのが、これ。

瀬戸内 (略)私も子どもを捨ててきていますから、幸せになってはいけないというのが私の生き方の根本にある。それを書きたかった。それと源氏物語では源氏がお父さんの恋人と不倫をしますが、それに対してすまないという気持ちが足りない。須磨に隠棲しただけで、しかも明石の君と出会っている。私のヒカルには罰を与えたかった。

寂聴さんがどういう私生活を送ってたか、というのは深入りは避けますが名前を変えて書いた小説は源氏物語をベースにしてます。その執筆動機というか内容の話です。寂聴さんにとっての「内なる源氏物語の問題」と「内なる恋や倫理の問題」ってのは解決を見ず、80を過ぎてもなお、まだ終わってないのだろうな、と思います。