「テメエと俺は赤の他人だ、その証拠に俺が芋喰ったって、テメエが屁をこくわけじゃねえだろう」という文句を、たぶん、「フーテンの寅さん」の映画のどこかで聞いた気がするのです。気がするのです、というのはかなり記憶があやふやだからです。たぶん、裸で寝ていてシーツにくるまりながらどきどきして風呂から上がってくるのを待ってるときににでもテレビから聞いた可能性が高いんですが、寅さんじゃないか、と推測してるのはこの台詞を渥美清の声で聞いたからです。シーツにくるまりながら、そうだよなーとか妙に納得した記憶があります。


そういうふうに納得することがいいことかどうかわかりません。ただ、この
「テメエと俺は赤の他人だ、その証拠に俺が芋喰ったって、テメエが屁をこくわけじゃねえだろう」
という考えが脳内にこびりついててはなれなくなってて、ネットでもリアルでも常にそれを意識してます。同じものを見ても感じ方は絶対違うはずだし、似たようなものだと思っても条件とかは違うはずであるから自分が上手くいったからって自分の成功譚どうりのことを薦めるのが怖いとか考えるようになりました。や、微妙に違うかな。自分のしてきたことを正当化して、その態度の継続の理由にしてるのかもしれません。
それにあまり干渉されるのも嬉しくない人も居るのかなということで、恋人とかリアルのかなり親しい人とかは別として当たらず触らずに終始するのがいいのかな、というふうに舵をきっていたんですけど。



本来私はあまり会話が得意でなくって人の話をきちんと聞いて理解してるかどうか怪しいと思うところもあり、また野良猫のようにあまり人と馴染まない性格であると判断してるけど、リアルでもネットでも行きがかり上いろんな人にお話を伺うことがあります。で、そのとき自分がどう思うか、ということの表明をどう伝えたらいいかけっこうな回数悩んできました。自分が思ってることと他人が思ってることが必ずしも同じじゃないかもだし、共感は示しつつも「テメエと俺は赤の他人だ、その証拠に俺が芋喰ったって、テメエが屁をこくわけじゃねえだろう」ということを前提にあまり深入りしたくないな、という態度をとってました。仮に相談されても幾つかの考えるようなヒントを与えることが精一杯で「あなたが決めること」として、突き放すことが多かった気がします。


で、「あなたが決めること」という言説は間違ってるのかそうじゃないのか、よくはわかりません。しかしどこか「判ってほしい」と望んでるような場合、ひょっとして自分の態度は冷酷なんかな、と思うようになりました。自分がどう説明して良いか判らないような動揺の中、その動揺を「判ってほしい」と望んでいる状態で自分の今までとってきた態度を誰かにされたと仮定したら、たぶん「どこか冷たい」とおもうかな、と感じたからです。もっとも自分でけりをつけねばならぬ問題のときでは他人にどうこうできる筋合いのものじゃないよな、ともおもうんですけど。


人との距離というのはほんと難しい、と思います。
わけわかめなエントリでごめんなさい。