草津の湯でも

私は恋愛というのは正常な判断が可能な人間が正常な判断を下すことができなくなる可能性のある状態に陥りやすい心理状態のことを指すとおもっています。冷静なときには云えないであろう言葉を吐くことができ、更に何のリターンを求めずとも相手に尽くしてもいいやとおもえてくるでしょうし、些細なことで思いは千々乱れます。
昔の歌人は詠んでいます
あいみての  のちのここころにくらぶれば むかしはものを  おもわざりけり」
実際そのとうりだと思うのです。恋をすると目の前に異世界が広がり、見えてくるものが違ってくるでしょう。恋とか一度そういうものを知ってしまった前とあとでは全く昔はものを考えてなかったと思いますし、たとえ恋が終わったとしてもそれはほんとは風邪が治ったような状態に戻るに過ぎないのでしょうけどこのまま風邪ひきのままでいいや、とおもわせるなにかがあるとおもうのです。少し異常でも治そうという意思があまりないですから、正気がなくて当たり前で、はたから見たら病気でしょう。異常な状態が終わるのが実は怖いわけですから猶のことです。
そういえば昔の人はこうも云ってます。
「お医者様でも草津の湯でも 恋の病はなおりゃせぬ」



誰もが多感なのは10代のころだとおもうのですが、初めて異性に対して手紙のようなものをやりとりしたとかわざと夜中にあったりしてたのはやはり10代のころでした。とあるきっかけで知り合ってどうでもいいような話をしてるうちに意気投合し、2つ先の駅の街に住んでた彼女とはその中間地点あたりのデニーズで待ち合わせたりしていました。主に勉強しなければならない時期でしたから、勉強の話しをしたりとか、そのほかに手をつないだりとか、美術館や書店に行ったりとか、先方はピアノが弾けてましたからそれを録音して寄越したりとか、こういう異性とかだったらずっと付き合っていたいなとかおもえてましたし、10代のころはたぶん誰もがただ一人の相手をずっと愛し続けることができたら良いのにと真剣に夢想するとおもうのですが御多聞に漏れず一時は私もそうおもっていましたが、案外冷静でした。
そのころ、執着がその異性に対してなかったからです。
たぶん。
カソリックの神父さんがよく伝道や結婚式のときに「愛はうつろいやすいもの」とスピーチすることがあると思います。たぶんそれは古今東西誰もが持つ共通認識で、故に誰もが普通はうつろい易い愛を繋ぎとめようと腐心するのでしょうけど、そのときは繋ぎとめるだけの執着はその異性に対してもっていませんでした。




「戀という字を眺めてみれば いとしいとしといふ心」
という都都逸がありますが、その「いとしいとし」がほんとは執着であって恋の本質で、それは相手が可愛いからとかそう云った事象から惹き起こされるという単純なものではないのかなという気がします。慕わしいというかそういう感情は実は性別とか関係なく、落とし穴に引っかかっるような突然の原因で引き金を引くわけでもなく、甘いものを喰わせてもらってるうちに放置していたら虫歯が自然とできてるような蝕むような感じで発生するのではないでしょうか。ひょっとしたら違うかもしれませんが。
なぜそういう状態に陥ったのか理由というか根拠というか、確たる説明はものすごく困難ですが、困難なときや多少寂しかったりしたときに、会話や餌付けされたりしてるうちに執着が生じていました。気がついていたら処置なしであった経験があります。一緒にめしを喰っていたら、できることなら他人に視線を送ってほしくないなー、とか思い始めていたときには既に処置なしだったのです。気がつくと冷静とほど遠い状態に陥って些細なことでも一喜一憂し始めていました。反応のひとつひとつがなんかきになってくるとというかなんというか。
餌付けの一種かもしれませんが、愛用している安物の懐中時計がくたびれてて、それを見かねてあるときに懐中時計のプレゼントを貰ったことがあります。西武の包装紙がかかってて、促されてあけるとけっこうな価格がしてそうな気がしたのでもらう理由がないとおもって受け取りを拒否しようとしたのですが先方も引き下がらず、しばらく押し問答の末時計の交換というカタチで決着を図りました。仕事柄時間の正確さを要求されるので常に持ち歩き、貰ってから何気なくチェックをうけていたのですが、相手からの執着がなんか快感であるとおもいはじめたのは時計を貰った20代を過ぎてからのことです。




初恋は実らないものとはいいますが、私はたぶんかなりの執着をこの時計の送り主に初めてもちました。その点初恋なのかもしれません。しかしながら相手に既に婚約者がいます。
もうしばらくしたら相手の結婚式ですが、先方の家庭を壊そうともおもいませんし、何とか執着をけそうという努力をしていますがなかなか難しいです。
たとえ恋が終わったとしてもそれは風邪が治るくらいのものなのだとおもいたいですが、それだけでは説明できないものが残ったりします。
「お医者様でも草津の湯でも恋の病はなおりゃせぬ」
やはり昔の人は核心をついてる気がするのです。これって案外そうなのかもしれません。



草津がダメなら越後湯沢あたりはどうなんでしょう。
トンネルを抜けるとそろそろ雪国の時期ですよね。
傷心旅行にでも出かけようかな、と思う今日この頃です。