第1楽章は悲壮感を想起させる出だしです。
第3楽章は暗くてゆっくりした旋律は冷たく、終楽章は早くて激しい旋律で始まり、最後の最後にようやく希望が差し込むような感じです。
ちなみにこのムスティスラフ・ロストロポーヴィチという指揮者はショスタコーヴィチの理解者というか戦友みたいな方です。ショスタコーヴィチ作品に世界で1番詳しいはずの巨匠でしょう。




以下蛇足です。自分ことを棚にあげて、書きます。



えてして人間が何かを表現しようというときに、たぶん誰かにわかってもらいたい、という発想が奥底に有るのではないかとおもいます。音楽であれ、絵画であれ、文章であれ、ブログであれ、会議であれ、チャットであれ、です。
ショスタコヴィチは、共産党から作風を批判されてわかりやすい曲を書けと圧力をかけられながら交響曲5番を書き上げたのですが、その終楽章でとってつけたような歓喜のテーマをくっつけてみせて、あからさまに体制に擦り寄りました(実はとってつけたような書き方をすることで強制されてる喜びの悲劇を如実に表現してるのですけど)。今の世の中誰も書くことに圧力をかける人なんかいませんし、ブログやチャットとてそんなことはないでしょう。何かいたって自由です。


ただ相手に判ってもらおうというディレクションがないと意味はなかったりします。トランペットがどんなに技巧的にうまくとも、誰かに伝えようという意思がなければ単なる雑音に過ぎないのと同じだと思います。あくまでも私は他人が外に存在するときに、他人に判ってもらうために表現方法やその他多くのツールがあるものだとおもっていますが、実際はどうかはわかりませんけど、やってはいけないことは相手の反応を見越して予防線を張っておくことではないかとおもうときがあります。わかってもらえないだろうとか、相手の反応を見越して予めそれに対して言い訳してはいけないとおもうのです。攻撃したり、ひねくれたりするのは自由ですよー。ただ、そういう自己防衛をして何になるのかという気はします。や、つか、私はひねくれてます、と宣言した上で、周囲に何を期待しろというのか?という疑問です。そこに人は要らないなら、その人にとっての表現ツールの必要性が私にはわからない。
仏教徒かぶれのせいか、私はみず知らずの人に対して普通は相手を受け入れる方向をとるものだとおもうのです。


独白に近いのですが特定の人を指していうてるつもりはありません。念のため。はてなその他をみて、漠然とおもったことを書きました。
それがブログだよー、といわれたら、ハイソウナノデスカ、としか云いようがないのですが。