耐えられないことの回避

品のないことを書くと経験がそれほどない頃に、経験豊富な人から陰毛を剃ることをすすめられました。痒みを引き起こすケジラミは毛の接触でうつるので毛を剃ればよい、という理由です。痒いのは耐えられそうにないけど剃ることにもっと耐えられそうになかったのでその人と会ったのはそれだけで二本挿しとか未経験で…ってそんなことはどうでもよくて。そのケジラミによる痒みを経験したことが無いのでヘタなことは云えぬものの(よいこのみんなはわからなくていい)けしからん映像を眺めたときに毛が無い例があるのを確認してからは「人は耐えられそうにないことを回避するのではないか?」という仮説を持っています。

何度か書いていることですが、冬になると東京は北西の冷たい風が吹き、早朝は手袋なしでは耐えられないとまではいななくてもちょっとキツいです。片手だけ無くしたこともなんどかあり、しかしそれが続くと同じことを繰り返すおのれに耐えられなくなりその回避行動をとるようになりました。具体的書けば定物定位置、決まったものを決まった場所に置くというのを習慣づけています。子規に

「手袋の左許になりにける」

という嘆きの句があるのですが、いまのところ左ばかりになる状況はここ数年回避できています。上記の子規の句、単純に読めば手袋の片方だけが増えてしまう、という嘆きなのですが、個人的には同じことを繰り返すおのれが耐えられない嘆きの句なのではあるまいか?と想像しています。子規が手袋を無くさぬようになったのかどうかは不勉強で知らないのですが、なんらかの工夫をしたのでは?と思いたいところ。

この定物定位置は手袋に限らず調理道具や文房具などにも適用しています。「探す時間がもったいない」というのがデカいのですが、整理整頓できないおのれに耐えられないってのもデカいです。

はてな今週のお題「習慣にしたいこと・していること」に関連して「習慣にするのってむずかしい!」という文章がダイアリの編集画面に出てくるのですが、つらつら述べてきたように私は耐え性がないだけなのでそこらへんがいまいち理解できていません。志の低さの自白になりますがほんと耐えられるか否かで、手袋等のように耐えられないと考えたらカイゼン策を考えて習慣化します。もちろん「月に○冊本を読む習慣」なんてのもなく、しかし本を読まない生活に耐えきれそうにないので本は読み、常に一冊はカバンの中に放り込んであります。もしかしたらそれを活字中毒というのかもしれません。

不思議なもので自分が習慣化したものを他人が習慣化していないと、稀にですが腹が立つことがあります。私は本を読んでメモを取る習慣はあっても読んでる本に線を引く習慣はありませんでした。最近手に入れた中古の本のあちこちに前所有者が引いたとおぼしき線が引いてあるのですが、これが耐えられないわけでは無いけど微妙に腹立たしいのです。些細なこととはいえ、その些細なことが気になるというか。書いてて気が付いたのですが習慣に書いてるつもりが「耐えられそうに無いことの回避」とか「些細なことが気になる」とかおのれのおのれの器の狭さについて自白になってしまってる気がするのでこのへんで。