「全ての国民の安心に留意する指針を策定」という文言についての雑感

たぶん前にも書いたかもしれません。酔っぱらった人を介抱して家まで送り、めんどくさいなあと感じつつその家にあがったらドアを閉め「家族が居ないから」という言葉とともにほんとはそれほど酔ってないのに気が付き、酔っぱらったようにみえたのは演技であることがわかって、(なんのことかわからないよいこのみんなはわかんなくていいのですが)物理的にまだハメられたわけではないけどハメられたと悟り、泥酔してるわけではないなら判断能力があると考えて「きちんと戸締りしろよ」と告げ、靴をもって外に逃げて門扉が閉まってたので塀を越えて帰ったことがあります。マンガだったらよかったのにと思いつつ、マンガみたいに警邏中の警官に遭遇したらどう説明しようかとか塀をよじ登りながら考えなかったわけではなかったものの、幸いにして警察のお世話にはなっていません。愚者は経験から学ぶといいますが似たような経験は一度だけではなく、つまりちっとも学んでおらず「ああおれは愚者ではなかったのだな」って安堵しましたって…書きたかったのはそんな話ではなくて。その属性の人すべてが同じことをするとは考えにくいので警戒しなかった側面があります。

さて、ここまで私は変なことを書いているという自覚はありません。

話はいつものように横に素っ飛びます。

「全ての国民の安心に留意する指針を策定」という文言がある属性の理解促進法の条文に組み込まれようとしています。前提としてその属性に関して「全ての国民」が「安心できない可能性がある」と考えていなければ、もう少し書けばその属性を持つ場合「安心できないことをするかもしれない」という発想が無ければ、出てこない言葉です。もっとも人は工業製品ではありませんからある属性があるからといって当然に安心できないことをするとは限らないわけで、その発想は冷静に考えると不思議です。「安心できないことをするかもしれない」という懸念は特定の属性というよりも、属性に関係なく起こりうるのではあるまいか、と。上記の個人的経験の属性は男性ではないのですが該当する属性の人すべてが相手の意思を無視して同じことをするとは考えにくいです。

「全ての国民の安心に留意する指針を策定」という文言を仮にある属性の理解促進法案にだけ入れてしまうと、間接的効果としてその属性は「全ての国民の安心に留意する」必要がある特殊な存在になります。青い血が流れてるわけでもなければ目が三つあるわけでもないんだけど、法の下の平等憲法でうたう国でどうして特定の属性だけこういう扱いになるのか、正直理解に苦しむというか。