孤独の副作用

前にも書いたかもしれないのですが前任者から資料を引き継いで読み込んでいた時に資金の流れで不可解な点があって、ある程度確証を得てから「これはどういうことですか」ということを尋ねたことがあります。興味深かったのはそのときの当事者が「いままで気が付かなかいほうが悪い」という趣旨のことを述べたことがあります。酌量の余地はありませんが止める人がいない孤独をうっすら感じました。でもって誰もがではありませんが人は、孤独を感じると・第三者がみていないと錯覚すると、自分が何をしているのかという判断ができない・善悪の判断が鈍ってくる・行為が暴走することがあると私は踏んでいます。

頓珍漢なことを書くと昨今の不適切動画の報道を眺めててうっすらと感じたのは「孤独だったのだろうか」という点です。キッチンの炎で煙草に火をつける、ということを含めもちろん「笑いをとる」ために動画を撮ったのだろうなというのは容易に想像できて理解できます。「笑いをとる」というより「呆れられ笑われるほう」なのですが誰の笑いを取りたかったのかはわかりません。でもあそこまでしないと仲間内でも観てくれない、と考えると孤独だったのかなあ、その孤独は誰かに見てもらうことで解消できたのかなあ、などと考えていました。また動画である以上は被写体が居て撮影者が居るわけでブレーキ役がいないのが不思議だったのですが、バレないと錯覚して動画を撮り、見つかったらどうなるかの見当もつかず、でもその秘密やスリルを共有することで仲間内で一体感を共有してた≒孤独ではなかったとするなら、是非は横に置いておくとしてまったく理解できない、というわけではありません。もちろん酌量の余地はありません。

孤独は人を暴走させる、というのは特段なんらかの学説があるわけではなくて、(愚者は経験から学ぶという言葉が正しければ)経験から学んだ愚者の皮膚感覚から来るものであったりします。ですから誇大妄想的なところがあります。彼らを理解不能とかバカ者として断罪してしまうのはわりかし簡単なのですが、孤独が続く限り、似たような事件は起きちまうのではないかな、と思ったり。

偶然私はキッチンの炎で火を点けるとかその方向へ行かなかった意識があります。孤独ではなかった・孤独でも耐えられる方なので、目の前で似たようなことをやったら止めるだろうと思います。もし孤独だったら・孤独が怖かったら根はバカなので中華鍋を叩いてラテンのリズムをとるくらいの動画は撮っていたかも。なので動画を観てもちょっと笑えないところがあったりします。(意味不明かもと思ったので15日に一部加筆しています)