w(もしくは脳内で考えていることを表出することについて)

猫と違って人は思ってることと逆の表情が出来ます。逆に猫は思ってることと違う表情ができないと云われています。とはいうものの、私は猫ではないものの、思ったことが表情にでちまうことがあります。先日も仙台でずんだ餅を前にして嬉しそうな顔をしていたようで…ってそんな話をしたいわけではにゃくて。

これからめんどくさいことを書きます。

以前はてなハイクというサービスがはてなにはあってそこに書いていたことに対して質問を貰ったことがあります。猫ではなく人としての意識が強かったのでめんどくさいな…と思いつつもそれを表出せずにやりとりしていたのですが、質問をしたほうがめんどくさくなったのか「どっちでもいいじゃないですかw」といいはじめました。「どっちでもいい」わけではないから書きそして反応していたものの、解がひとつとは限らないという教育を受けていたせいもあって白黒はっきりさせようと争うつもりもないので受け流したのですが、先方がご丁寧に嘲笑や揶揄の意図を含めたであろう「w」までつけてたそのときの経験から

「人はそのときの脳内で考えていることをそのまま文章にしてしまうことがある」

という仮説を得ています。

その仮説を持ちながらその人や他の人の文章を眺めたりしていると「最初に理屈があるのではなく脳内に浮かんだであろう断定があり、その断定があるゆえに理屈がないので説明が文章として続かない」としか読めぬものに出くわしたりと勉強になっていて、それらの点ではてなハイクは私にとって得難い学習をさせてもらったと思っています…ってはてなハイクの思い出を書きたいわけでもありません。

「人はそのときの脳内で考えていることをそのまま文章にしてしまうことがある」ということについてそれが良い悪いを問うつもりはありません。たとえば冷静に判断でき論理的な言葉を紡ぐことが出来る猫もしくは人ならどんどん垂れ流すべきです。残念ながらわたしはそうではありません。そしてそのうち「おのれにもありえるのではあるまいか?」ということを意識するようになりました。そこで先行者と同じ轍を後進が踏んだところで二番煎じでそこにはなんの芸(…芸?)もありません。ゆえに変えぬとマズいと考え、以降、たとえば小説や映画やマンガやアニメを眺めて感想を拙いながらも書こうとしたときは一呼吸おいて「なぜそういう感想に至ったか」というのを蛇足と知りつつも必ず加えるようになっています。

ここではてな今週のお題「変わった」を引っ張るとおそらく「w」を貰ったあたりから私の書く文章は変わってるはずです。これらの顛末をミステリっぽく書けば「wの悲劇」とか書けたのですが…って、せっかくちゃんと書いてきたのに最後がそれじゃダメじゃん