「うっせぇわ」雑感

いまはくたびれたおっさんですがそれ相応に若かった時期があります。社会人になってそれほど時間が経ってなかった頃に京都出身の異性の上司に仕えていました。私もわりと華奢なほうなのですがその上司も華奢で、しかし体力は私の方がありましたから一緒に行動するときになにか持たせてくださいと申し出て「そう?じゃ頼むわ」と、必要に応じて書類などのカバン持ちをしていました。このカバン持ちの姿がほかの人からするとかなり印象に残ったらしく、意図せざる効果として顔を覚えてもらうのに不思議と威力を発揮してます。もっともこの経験から、若いうちにカバン持ちをしたほうが良い、などとは他人に一度も云ったことがありません。どちらかというと私がそうなのですが「したほうが良いかもしれない」ことは「他人にいわれると反発する」ことがあるからです。

世の中で流行ってる「うっせぇわ」の歌詞の中に

酒が空いたグラスがあれば直ぐに注ぎなさい

皆がつまみやすいように串を外しなさい

会計や注文は先陣を切る

不文律最低限のマナーです

(Ado・うっせぇわ)

 という歌詞のあと

はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ

(Ado・うっせぇわ)

 と続いて、個人的に「したほうが良いかもしれない」ことを「他人にいわれると反発する」のでよくわかるところで笑いを堪えるのに必死で、この歌詞を書いた人ともしかしたら気があうかもしれない、とは思いました。って、てめえのことはともかく。

話はいつものように横に素っ飛びます。

明文化されていない「したほうがいい」ことはほんとは「しなければならない」と同等ではないです。しかし今の世の中で厄介なことに「したほうがいい」ことは「しなければならない」わけではないのに、「みんながそうしてるから」という空気があるときには「したほうがいい」ことが限りなく「しないほうがおかしい」や「不文律最低限のマナー」にいつの間にかなってしまうことはあったりするわけで。さらに厄介なのはそれらを言い出すのはたいてい善意(の顔をしたなにか)で、善意の提言に歯向かうとすれば絶対に行動が正しいとは解釈されない地獄への一本道にいるわけで、逃げ道はありません。逃げ道がないから理屈でないところで「うっせぇわ」とつぶやくしかないわけで(理屈がないのは本人もわかってるので補完するように健康であることや凡庸でないことを述べ理性が自分にあることを想起させる歌詞がある)。私の解釈が間違ってるかもしれないものの、(歌詞内では天才という言葉を使っていますが)他人と異なる考えや態度や行動をとり続けることが難しく閉塞感を感じてることを、憂いとかもの悲しさを感じさせつつ高速でメロディが進みつつ巧く歌詞に載せてるな、とは思いました。ただ熟読玩味すればするほどこの世は地獄なのかな、と。

「うっせぇわ」を聴いて、青ブタを読んでからこちら「空気」にまつわることをずっと意識していたので、そこらへんの歌詞が私は刺さったのかもしれません。でもって、多くの人が動画を視聴してると聞くと、やはり「うっせぇわ」としかいえぬ逃げ道のない閉塞感がこのくににはどこかあるのではないか、と誇大妄想的なことを考えてしまったり。