わたしは愚かなので虚構とわかりつつも物語にのめり込んでしまうところがあります。虚構のなかに「よくわかる」「そういうことがあるかもしれない」ということをなにかしらのきっかけで見出しちまいって、熟読しちまうのです。
「みんなから『あいつ、いつもひとりだ』って思われるのは嫌」
「そっか」
妙に納得した気持だった。ペダルに置いていた足も、自然と地面に置いていた。恐れてるのは孤独そのものではない。みんなの輪から外れてる自分をみんなに見られるのが嫌なのだ
(「青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない」・P110)
1月からのめり込んでいる(青春ブタ野郎≒)青ブタシリーズの一節です。何度か書いてるのですが、上記のことはいまは当然のこととして克服したけど恥ずかしながら10代の頃に経験した身に覚えのある感情です(ゆえに10代の頃は空気を読むのは敏感になっていた)。虚構と知りつつも身に覚えがあることが描かれてるゆえに40過ぎてるおっさんがなにやってんだとおもうのですがはらはらしながらアニメを視聴し、初夏から晩夏にかけて原作のページをめくって物語を追っていました。
「『ごめん』って気持ちはとても大事ですよ?大事ですけど、ずっとその気持ちを向けられると、人は『ごめん』の重さに押し潰されてしまうこともあるんです」
「なら、どうすればいいんですか?」
「咲太くんは言われて嬉しい言葉はなんですか?」
「…」
「『ごめん』といわれるのは好きですか?」
(「青春ブタ野郎はロジカルウイッチの夢を見ない」・P105)
主人公が登場人物の一人・牧之原翔子から七里ヶ浜でそう忠告を受ける場面があります。この忠告が主人公をちょっと変えます。個人的に青ブタを読むまで「ごめん」を些細なことから些細でない事柄を含め、あまり考えずに使ってわりと濫発していました。誰だって好きなはずがありません。正直、読んでから反省し、私もちょっと変わってます。受け取るほうを考慮する必要性というかことばの重要性をあらためて考えさせられてます。虚構、それも高校生の会話から学び取るのですから、これを書いているおっさんの脳内は(大きな声ではいえませんが)高校生並であったりします。
夏を振り返るというお題を引っ張りながら話がいつものように横に素っ飛びます。
読み進めてくうち青ブタが虚構としりつつその舞台を訪ねてみたい感がでてきて、舞台は藤沢や七里ヶ浜なのでそれほど遠くなく、今夏に訪問しています。時間の都合で
七里ヶ浜だけですが、堪能してました。
ほんとの七里ヶ浜駅がそのままアニメでも再現されてるのを知って、つい「おお」と言葉になってない言葉を発したりもしてます。いわゆる聖地巡礼ってやつなのですが、なんだろ、実体験してアニメを観て聖地巡礼する人の気持ちがちょっとだけ理解できた気がします。ライトノベルズやアニメは虚構なんだけど、現地へ行くと虚構ではないかもしれないという錯覚をほんのちょっとだけ感じ取れて、それが興味深かったです。