油照りと蚊

油照りという言葉があります。かつて仕えた京都出身の上司がその言葉をつかってて、最初意味がわからなくて、訊いた記憶があります。意味としては「じりじりとして暑い」とか「じっとしてても汗が出るほど蒸し暑い」とかなのですが、東京ではあまり聞きません・使われません。その言葉を知ってからも夏の京都へ行くことはあって、「じりじりとして暑い」とか「じっとしてても汗が出るほど蒸し暑い」という「油照り」を何度か実体験しています。

今夏も7月の終わりに、懲りずに油照りの京都に行ってました。

その際に現存する京都の商家建築のひとつである杉本家住宅(明治三年築)を見学しています。室内の造作を含め見どころの多い建築なのですが、もちろん冷房はありません。夏の間は紙の障子を葦戸に換えたりして屋内に風が通るという説明を受けたのですが、間が悪かったのかもしくはそもそも京都は盆地ゆえなのかその肝心な風がほとんどないのか、屋内でも扇子であおいでないと汗がにじみ出てくるような暑さでした。夏は世に知らずあつき、と清少納言は云ってたはずなのですが、果たして冷房のない時代、油照りの京都で人々はどうやって過ごしていたのか、ということをさすがに考えちまっています。杉本家には歳中覚という書物があって摂るべき食事についても書かれていてふだんの朝夕は3月から9月まで香の物にお茶漬けとされてて、おそらくそれを食べてたのだと思われますが、冷たい茶漬けじゃないと厳しそうな気が。

杉本家住宅には見た目に涼やかな庭があります。

でも暑いです。しかし油照りの暑さが見た目だけでも涼やかなものを求めるきっかけとなり庭以外にも茄子の翡翠煮や琥珀糖の菓子を産んだのかも、などと愚考してますが、ほんとのところはわかりません。

庭のせいかもしくは

ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。 羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ

                   (枕草子第二十八段)

なんてあるのでもともと京都は蚊が多いのか、電気蚊取りが杉本家住宅のあちこちでフル稼働していました。千二百年の都はもしかしたらずっと蚊にも悩まされてたのかなあ、と考えたら勝手に想像していた雅やかな京都像があっけなく崩れてます。

はてな今週のお題が「夏を振り返る」なのですが、建物は興味深かったものの、油照りを体験し蚊の存在を想像すると、冷房があってベープのある現代社会のほうがいいよなー、などと馬鹿にされそうでなおかつロマンを感じさせないことをいにしえの都でちょっとだけ思ってました。