「変になったときがまともなのかまともな時が変なのか 」

先日の台風はJRが計画運休を予定し告知してて「もしかして出社できないかもなあ…」などと考えていたのですが、いくらか離れたところを並行する西武鉄道は計画運休をせず遅延はあったものの動いていたので遅刻することもなく出社しています。

ただ風がかなり強くて今住んでいる家の前の桜並木の葉がかなり落葉しました。帰宅したら道路が3分の1くらい緑色になるくらい敷き詰められてた状態です。やむを得ず、家の前分だけは街灯があるのを奇貨として雨が止んでいた月曜の夜と火曜の朝の出勤前に、ほうき片手に掃除しています。しかし悲しいかな、隣のアパートの人たちはここ数年まったくそういうことをしません。予想できていたことなのですが、案の定、火曜の夜には隣のアパートの前に朝あった桜の葉がこちらの方に吹き寄せられてて、もとの木阿弥です。やむを得ず掃除したのですが、なんだろ、自分がやっていることを他人がしないというのは、どこか腹立たしさがあるなあ、とつくづく思いました。でももちろん隣の人たちは桜の葉を掃く義務なないし、別に私が桜の葉を掃く義務があるのか、といったらないです。こういうとき「おのれが変なのではないか」という思考にとらわれることがあって、

いまでもあることだが僕は時々気が変になるのだ

たいていの人も同じなのかもしれないが

困るのは変になったときがまともなのか

まともな時が本当は変なのか自分ではわからない

           辻井喬・「おいしい生活

という辻井さんの詩作を想起するのですが、「変になったときがまともなのかまともな時が変なのか 」やはり自分ではわからないので答えはないです。いまあるのは桜の葉のつまった4袋ほどのゴミ袋と小さなため息だけなんすが。