B型猫説

夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で吾輩が、鯔のへそでもなんでもいちばん一番先に見付けたものがこれを食う権利があって、相手がこの規約を守らなければ腕力に訴えてよいくらいなのにもかかわらず我等が見付けた御馳走は必ず彼等(人間)のために掠奪せらるるのであると隣の家の三毛君が憤慨する・嘆いていることを紹介しています。猫には猫のルールがあり猫からすると人間のほうがわがままだという批難です。鯔のへそを奪ったことはないものの玄関先で日向ぼっこしている顔見知りの猫をどかそうとして睨まれた・抵抗されたことがあるのですが、猫のルール≒三毛説をとればその睨み・抵抗は温かい場所を先に見つけて占有しているのに人間は強力にまかせて略奪するという抗議だったのかもしれません。でもって「吾輩」は「人間の世界の世界もそう長くは続くまい、猫の時節が来る」とも書いています。猫の書かれた日露戦争の頃から113年経過していまでも人間の世界が続いているものの、たまに通勤途上で見かける顔見知りの猫の目の鋭さを考えると吾輩説が妙に説得力があるような気が・人間が滅びて猫の世界が来るその瞬間を虎視眈々と狙ってるのではないかという気が、ちょっと捨てきれません。いつか猫が世界征服するSFをものにしたいと考えているものの、猫がチュールに夢中であるCMをみてから説得力ないかな、と思っていまのところ封印しています、って、あ、そっか、チュールを求めて蜂起を起こすでもいいのかって、くだらないことはさておき。
はてな今週のお題が「猫」です。
血液型占いほど信用できないものはないのですが、個人的にB型であるがゆえに微妙に刺さるのがB型は猫であるというB型猫説です。最初に書いておくと残念ながらB型猫説を否定する材料を持ち合わせていないです。普段はそんなことはないのですが勤務先でペーパーを読みながら説明を聞いてるうちに場合によっては内容が不満だと顔つき・目つき・質問がどんどん険しくなると指摘されたことがあります。人にできて猫にできないことがあって、ひとつは腹で思っていることと違った顔が猫にはできないそうで、まさに私はそれがでちまうことがあります。また追い打ちをかけるように上を通過する彼氏からも懐いてるようで懐いてないし予想外のところでじゃれてくる野良猫だとも指摘されたことがあります。
が、いいわけすると猫に猫のルールがあるようにB型もというかすくなくとも私はルールをもって接しているのです。なるべく小さいことにキレないかわりにポイント積立制なだけで(満期になったら意思表示してるだけで)、常にべたべたしたらうざったいだけだろうと察しているので抑制しているのです。おそらく世の中のB型も、考えがないわけではないはずです。でも、なんだろ、B型≒猫扱いということは、吾輩は猫であるにおける猫のルールが理解されないのと同じで・考えとかルールがあるように思われてないわけで、あんまり理解されないことなのかあというもどかしさはあります。
ここまで書いておいてなんですが、猫を飼ったことはありません。猫にルールがあるのかどうかも・猫とB型が近似なのかどうかも・猫の時節が来ることを待ってるのかも、実は観察したことがありません。飼ってみたいなあという希望はあるのですが留守がちなので諦めています。猫同伴可の職場なんてのがあったら、転職をちょっと考えちまうのですが。