笑わすこと・笑われること

私は10代後半のころから越前屋俵太さんをリスペクトして育ったのでこれから述べることにはあんまり普遍性はないかもしれません。越前屋俵太さんというのはギャグもほとんどいいません。ただスーツを着て真面目な話をしながらこけそうなところへ歩いてゆき、真面目な顔をして平気でこける・海の中へ入ってゆくのがうまいのです。探偵ナイトスクープの依頼で南紀で飼い犬がどこでメシを貰ってるか追う調査でも電信柱の被り物をしてたのですが、いたって真面目です。俵太さんの分析をすると、真面目なのを維持しながらどこか崩すと笑いが生まれますが、それを追求した人でした。笑わすことが巧い人で、笑われる人ではありませんでした・笑われることはしませんでしたって、別にお亡くなりになったわけではないのですが。ちなみに俵太さんは残念ながらテレビから別のところに軸足を移してます。
越前屋俵太さんがいたような以前は「笑わす」ことと「笑われること」というのは区別があって、前者は芸ですが、後者は好ましくない呆れられることであったはずです。ところがここ数年「笑わすこと」と「笑われること」の区別があいまいになって、「笑いをとれればいい」「うければいい」「目立ちたい」というのがメインになりつつあるというか不思議な空気があると思ってます。おそらくそれを広めちまったのはレッドカーペットやイロモネアかなあ、と。一分間で笑いをとるというのは前戯なしで絶頂をめざせみたいなものでほんとは難しいことなのですが、呆れられるような「笑われること」でも「笑いがとれてるからおk」にしてしまったような気がします。もっといえば極端な話、日本の笑いというののレベルを低くし、「笑い≒笑われてるものでもおk」にしてしまった気がします。もっともテレビの影響はほんとはたいしたことはないかもしれません。たとえば愛は地球を救うというのは子供のころからやってますけど、おとなになった今でも愛で地球は救えてるかというと怪しいです。でもテレビでやってることに触発されて行動を起こすということはあるかもしれません。たとえば募金であったりとか。
テレビに触発されて笑いをとる行動というのもそう考えれば不思議ではありません。「うければいい」「笑いをとれればいい」というのが暴走するとどうなるか、というとステーキチェーンの冷蔵庫の中で寝そべって・ハンバーガーチェーンのバンズの上でねっころがって・コンビニのアイスのショーケースの中でねっころがって・レジの上に座って股間バーコードリーダあてて、それを撮影してツイッタにアップして笑いをとろうとします。おそらく目立つし、うけるでしょう。それは以前は「笑われること」で呆れられることだったのですが、そこらへんの境界が無くなってるので、できちまうのかもしれません。というかコンビニのアイスのショーケースの中で寝そべるというのは誰も云いはしないけど「やったらいけないこと」のはずなんすが、その誰も云わないで済んでるはずの「やったらいけないこと」ことが判らない人が増えてるのではないかという怖さ、もしくは「やったらいけないこと」の前で踏みとどまらずにやってしまうブレーキの利かなさに関しての恐怖があるんすが。もうひとつ「それをやったらどういうことになるか」ということの想像力の欠如というか周囲にうければいいやってんでやったんでしょうけど、周囲しか見てない視野の狭さが怖いというか、もしかしたらなにがなんでも笑いをとろうとするとどんどん視野が狭くなるのかもですが。

レジの上に座って股間バーコードリーダをあてて写真とる→ツイッタに、なんてことは時間がなければできないと思うのですが、幸か不幸か「次は○○の件片づけなくちゃな」みたいなのが社会人になってずっと続いてるのでその余裕がありません。私は根っこは比較的笑わせたりすることが好きなので、ニュースをみてて偶然そっちへ行かず、一歩間違えばああなってたのかなあとか考えると、真夏なんすが、なんかこう、うっすら背中が寒くなって来るんすが。