上野は不忍池のほかに上野山があります。
ブラタモリで上野寛永寺を叡山に見立て、不忍池を琵琶湖に見立てた、って紹介してましたが、その痕跡のひとつが上野山のなかにあるのが清水観音堂です。つまるところ京都の清水寺です。もちろん清水坂もあります。
崇徳院という落語がありまして、江戸東京だと舞台は上野のこの清水観音堂になります。観音様のお参りのあとに袱紗を落とした(水の垂れるような)お嬢さんがいて、それを若旦那が拾ってあげるのですが、そのときに
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」
という短冊を渡します。崇徳院の詠んだ有名な短歌で「われても末にあはむとぞ思ふ」というのが下の句なんすが、いまはこのまま別れてもあとで逢いたい、という含意です。若旦那は病に伏せてしまい、かわりに借金棒引きなどを条件に熊さんがそのお嬢さんを探し出す噺です。そんなこといったって判るのは水の垂れるようなという容姿と短冊の「瀬をはやみ」の上の句だけ。入れ知恵でわりと噂話がひろがりやすい湯屋(銭湯)で「瀬をはやみー」、髪結床(床屋)で「瀬をはやみー」、ってやってくんすが、結末は落語をお聞きいただくとして、上野の清水の観音様は江戸期から有名だったようです。
演じる人によってアレンジがちがうのですけど、志ん朝師匠の場合は若旦那のかかったのは「お医者様でも草津の湯でも」っていうほうの病で、かんじん要なそのお嬢さんの名前も住所もきかず、次逢う約束もせずにわかれたことを呆れられてしまうのですが、一目惚れの経験は無いからわからないものの、でもなんとなく人は場合によっては容易になんにもできなくなる状況に陥りやすいんじゃないかとおもうのです。美形でなくても惚れたり好きな人の前ではそっちに印象が残るというか目で相手を追うことに神経がゆき、相手がなにか言ってるのはわかるんだけど、聞きのがしちまうことはあるんすが。たとえば「あ、良い眺めだな」とか思うような、相手がふろから上がり、髪の毛拭きながら近づいてくるとき、とか。そんなことないか。
清水の舞台もきちんとあります。ただし眺めは本家に及びませんが。