東京は午後から雨です。花散らしの雨かも、って思ってたのですが、それほどでもなかったです。
花が散ることについて詠んだ歌ってのはけっこうあります。でもって、花が散るってことを詠むのはなんでなんだろ、と思ったことがあります。春になると花びらを掃除してた子供からすると花びらを掃除するのがめんどくさいなー、なんでこんなものを風情があると捉えるんだろ、って単純に思ってたのです。紀友則のなぜそんなにあわただしく散るのかと嘆くうたの「ひさかたの光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ」ってのも、おぼろげながら情景がわかりつつも、ピンときませんでした。そもそも光の「どけき」ってなんだろなー、って思ってたくらいです。花って私の中ではきれいな落ち葉に近くて、春になったら勝手に咲いてそのうち散る掃除がめんどくさいものだ、ってのがあたり前だったから、そこらへんひどく鈍感だったです。
高校もしくは大学受験前あたりで知った西行という人の「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」ってので、あー花が散るという光景は人の心を揺さぶるのか、と気がついたわけっす。花を散らす風のような傍観するしかないものや、手を尽くしたけど手に負えないコントロールできないものに対してたぶん人ってのはこころ揺さぶられるんじゃないっすかね。なんとかならんものか、と思いつつ、なんもできひんやん、って諦めちまうわけっすけど。西行の人となりにあまり興味はないですがなんで仏門に入ったのか気にはなってて、北面の武士だったころに自分ではどうすることも出来ないことや「こころ揺さぶられること」を傍観するしかなくて苦しんで仏門に入ったのではないか、仏門に入ってからも風に散らされる桜を夢見て歌に詠むくらいですから安寧になることはなくあちこち漂泊のたびに出ても「こころゆさぶられること」を想起したり傍観するしかないことをまた目の当たりにして苦悩したんじゃなかろか、なんて勝手に思ってます。
でもってこころ揺さぶられるものに遭遇したとき、なにをするか。答えのひとつとして西行は何か書いて救われてたんだと思うんすけども。
もしくは文字にして、歌に残して鎮魂をしてたのかもしれませんが。
西行に限らず和歌って現代でも読まれてます。落語でも古典が現代でも演じられたりしますが、なんでなんだろ、ってのをずーっと考えてるのですが、よくはわかりません。でもなんとなくは想像ついてて、作った人の考えてることが提示・再現されることによってそこに提示・再現されてることが読むほう・聴くほうに照らされたり響いてくるからなんじゃないっすかね。でもって、アンプ役・水先案内人として、落語家とか学校の先生がいるんじゃないかなあ、と。
また、それが何の役にたつのかといわれると困っちまうものの、古典の突きつける問題って、普遍性があるんじゃないかとを文学をやらなかった人間はたまに考えちまうんすけども。西行にせよ、紀友則にせよ、花を散らす風のような傍観するしかないものや、結果として手に負えないコントロールできないものに対してなんにもできずに胸をかきむしられたり嘆くしかなかったのですけど、どうやり過ごすのがベターなんすかね。今に生きる私も(花が散るくらいでは別になんとも思わないですが)人づてに聞いたことなどで、どうともコントロールできない場面ではすこしの間、胸をかきむしられたまま呆然としちまうことがあるんすけど。