「コロナ前には戻れない」という言葉を耳にして

東京の蕎麦の場合、海苔を散らした蕎麦のことをハナマキそばということがあります。なんでそんなことになったかは謎で、海苔を磯の華と呼んだからとか、海苔を花が散るようにはらはらと撒いたからだとか(この場合せっかちな江戸っ子がそんなことをするのかという疑問がある)、ともかく諸説あります。海苔を散らした蕎麦を素直に海苔そばといわぬようなひねた根性の蕎麦店はいまでもあって、東京でチェーン展開している小諸そばという店ではハナマキそばはないものの文字を眺めただけではおそらく見当がつかない「月夜のばかしそば」というメニューがあります。種明かしをすると蕎麦の上に天かすとお揚げ、それに卵が載ってて、「たぬき」と「きつね」と「月見」が同居してて、ひねって「月夜のばかしそば」です。卵が載ってるので卵嫌いな私はいちどたりとて「月夜のばかしそば」食べたことはありませんが、小諸そばは価格が安めで勤務先のそばにあってたまにお世話になっていました。

過去形で書いたのはいくらか遠くへ移転してしまったからです。小諸そばの近くにやはり価格が安い富士そばもあったのですがやはり同じく消えてしまっています。別にかなりのめんくいではないものの比較的安めの博多うどんの店を近くにみつけて「おっしゃラッキー!」と思っていたら今月で閉じる予定です。地下街にも以前はどさん子ラーメンというのがあったのですがコロナ禍の景気悪化で消えちまいました。どさん子ラーメンに限らず、この1年で閉じてしまった店は景気悪化や再開発等で地下街も地上もけっこうあります。

もちろん地下街にはもう一軒それほど高くない蕎麦屋がまだありますし、値段さえ気にしなければパスタ専門店やしゃれた蕎麦店が、ちょっと歩きますが讃岐うどんの店やほかのラーメン屋もあることはあります。

でもなんですが。

選択肢が少なくなってきてつくづく実感することなのですが、選択肢が沢山あるということは、豊かな証左なのではあるまいか、と。書けば書くほど舌と消化器と感情がつながってることの証明になっちまうのですけど、美味しいものが身のまわりから消えてゆくというのは(豊かではなくなりつつあるのを知りつつも)悲しいものがあったり。

「コロナ前には戻れない」という語句を見るたびに・耳にするたびにそれらは理屈ではわかってるのですが、こうやって書いたところで事態が変わるわけではないのですが少しだけめんくいなほうとしては「せめて麺類だけは戻してくれないか」とどこか思っちまうのです。