浮世絵ってのは実は西洋の絵画にけっこう影響を与えてるのですが(ゴッホなんか有名人なんすが)、浮世絵は国内であまり評価されてませんでした。で、結果としてアメリカや欧州へ大量に海外に流出しました。こんど両国で写楽の展覧会があるのですが、それはギリシャから借りてくるものです。名古屋市名古屋ボストン美術館って不思議な施設があるのですが、本家本元のアメリカのボストン美術館ってのは大量に浮世絵を収集してて、ボストンから浮世絵を借りてきて展示なんてこともしてます。日本であまり評価されなかった浮世絵はなぜか欧州やアメリカで評価されててせっせとコレクションされてたので、日本の文化のものでありながらこういう事態になりました。
浮世絵の研究ってのも実はそれほどすすんでいません。浮世絵は版元が居て商業ベースで製作されました。で、ほんと不思議なのですが、この国はなぜか昔っから商業ベースで製作されたものに対しての評価があまり高くないのが伝統なのです。いまでも他の日本画に比べ浮世絵は低く見られがちで、そして資料的価値のあるものがボストンにあったりベルギーにあったりギリシャにあったりしてけっこう流出してしまってるから研究が進みません。それと春画があるせいか、あまり真正面から取り上げにくいせいもあるかもしれません。
なおほんとに余談ですが浮世絵師で葛飾北斎はいろんなことがわかってますが、東洲斎写楽って有名な人なわりに謎が多いです。ある程度残ってるのは最盛期の十ヶ月分のみで、どこで生まれてどこで何年に死んだかも不明のまま。一人じゃなくて複数じゃないかとか、歌川豊国という絵師が別途、写楽というのを名乗ってたのではないかとか諸説ありますが、正確なところは誰も知りません。


商業的なものを低く見るその悪しき伝統はいまでもあります。いちばんわかりやすいのはアニメとマンガです。ちょっとほかの表現に比べ悲しいかな正当な評価ってされてるか、っていったら怪しい気がします。ひしひしとそれを感じたのがいわゆる「国立メディア芸術総合センター(仮)」構想を「巨大国営マンガ喫茶」って斬って捨てた国会の議論だったりします。既に権威となってるものでないせいもありますが、マンガ・アニメはあれだけいろんな人の心をかき乱したり泣かしたり感動させたりしてるものがあるのに、文化・芸術じゃないんすかね。
たぶんマンガやアニメでも浮世絵と同じことが起きると思うのです。いまのアニメ・マンガってたぶん玉石混淆だとおもいますが、評価されるべきものであっても正当に評価されないまま、「ああ、あれは商業ベースのものだから」ってんでちゃんと評価・研究がされないまま、ずるずるといくのではないか、と思ってます。それはそれでかまわないんじゃね?っていえば私は研究者でもないから困らないのでかまわないのですが。
もっとも自治体レベルではアニメやマンガについて芸術としてみる観点からの取り組みってのはあります。東京都の場合、写真美術館と現代美術館でそれぞれアニメに関する企画を組んでそこそこ注目を集めました。杉並にはほんと小規模なアニメの美術館があります。マンガについては京都市とマンガ研究をしてる私立の京都精華大が中心になって京都市内の廃校になった小学校を有効活用してマンガミュージアムを中京区につくってるのですが、そこが20万冊ほど所蔵してて、およそ日本で一番のコレクションです。そんなような動きがあるのでここで国としても施設を作ろう、ってのはわからないでもありません。正直、お台場に作る必要はないと思うもののなにかしらのかたちで個人的には浮世絵の二の舞にならぬよう、自国の文化の保護のために収集・研究の施設を作っといたほうがいいのではないか、って思うのですけども。
ちょっとマニアックな話をすると浮世絵もそうですがアニメやマンガは平面的で遠近法などの技法をあまり使わない、独特な世界なのです。現代美術畑の人なんすけど村上隆という人がそれをスーパーフラットという概念で説明してるのですが、こういう表現というか感覚をどうして好んでしまうのかとか、ほんとは当事者である日本人が学問的見地からちゃんと研究しておいたほうがいいんじゃね?と思うのです(ここらへんひょっとしたら既に研究論文があるのかもしれないっすけど)。そしてまた、後世のために資料を収集しておくのはそれほどピントが外れた話ではないはずっす。


ただ、いかんせんわかりやすい「国営マンガ喫茶」という揶揄の言葉の強さはなにもかも吹き飛ばしそうな気がします。その言葉の裏には芸術なんてものは商売に関係なく高尚でなきゃいけなくて居ずまいを正して鑑賞するようなものでなきゃいけないってなことなのかもしれませんけど、でも、そんなふうに捉えてていいのかなあ、と。マンガもアニメも日本文化のなかではいまのところ傍流的あつかいではあるけれどいまの日本社会・日本文化を語る上で、すごく重要のはずで、評価の固まった伝統文化や欧米からの舶来の文化だけが「芸術」ではないはずなんすが。
いまある生きてる文化をきちんと評価できるかどうかというセンスの問題かもしれなくて、でもそういう事は政治の場に期待するのはちょっと無理なのかもしれません。