私は落語をあまり知らないので下手なことはいえないけど、落語が元になった歌舞伎というのをいくつかみてきました。衝撃を受けたのは【文七元結】なんすけど、この話、主人公が娘が吉原へ貰われてその身代金として受け取った50両を見ず知らずのとおりすがりの50両無くした青年にくれてやるんすね。誰かも知らない、見ず知らずの人間に対して、「観音様でも帝釈天でもこんぴら様でもなんでもいいからよ、テメエが拝んでる神様仏様に俺が無事に過ごせるようにって祈ってくれればいいから」という条件付で50両渡すってのは狂気の沙汰です。でもそうぜざるを得ない、ってのはなんだかひどくわかるんすね。で、あるとき、立川談志と言う人が「あれは交通事故なんすよ。交通事故。交通事故が目の前でおきたとき、そのまま放置できるか」ってなことをいったのを知ったのです。個人的にはそのことばが一番腑に落ちたんすよ。
そのあと、立川談志という人が「落語は人間の業の肯定である」ってことをいってるのを知って、なるほどなー、と思ったのですが。そっか、人間って業ってものに、とらわれてるかもしれないってことを談志師匠から教わったわけっす。


馬小屋が火事になったとき、孔子は馬よりも人が怪我しなかったかどうか心配したっていう故事を引用した厩火事って言う落語があるのです。酒飲みの亭主との離婚の相談にきた働き者のおかみさんに皿をわざと割ってみるようにすすめる落語です。ほんとに惚れてたら皿よりあんたを心配するはずだよ、もし、こわした皿のほうを心配するようなら、そのときは別れてしまえ、っていうわけっす。実際、皿を割ったら案の定「怪我はなかったか?」と聞くのでよろこんじゃう。さらに訊かなきゃいいのに、そんなあたしが大事かい?ってきいちまうんすよ。そんな真正面からの問いかけにまともに答えられるわけがなく「怪我されてたら明日から酒がのめない」っていうんすが。まともにこたえられない男の気持ちもわかるし、訊きたくなるのもわかる話だなー、って思ったんすよ。業の肯定っていうとなんですが、たぶん誰もが業のようなもの、背負ってるんじゃないかなー、とおもうんすね。
ちなみに文七元結のなかでは見ず知らずの、どこの誰だかわからない相手に50両渡したことを奥さんに云えません。嘘をついてのらりくらりと逃げます。いえっこないっすよ、ほんとのことなんか。時として嘘をついたり、ほんとのことをいえないってのも、業なんじゃないかな、っておもうんすけど。


批判めいた口調で他の人から聞いた立ち話でも、たまにあーそれって人間の業みたいなものが作用してるんじゃないかって感じるとき、そのことに関して批判めいたことをいうのがなんだか野暮だなーっておもうときがあったりします。と同時に、なんだかひどく親近感を感じます。それと、人間って理詰めで生きることなんてできないんじゃないか、賢くなることってできないんじゃないか、なんてこともたまに考えるんすけども。