山陰山陽

週末を含め4日ほど休みがとれたので予定はあまりたてずに西日本へ行ってました。
○遡及日誌1日目
前日仕事を終えてから渋谷から高速バスに乗り、松江へ。松江から先、さらに時折みえる日本海を横に雲行きを気にしつつ山陰線を西進し約1時間半で大田市というところへ。
大田市からさらに路線バスで30分ほど南へ進むと、大森という地区があります。第一目的地は大森にある石見銀山跡です。



中心部から外れたところに石見銀山世界遺産センターってのがありまして鉱山学を知らなくてもここで予習できます。銀鉱石からどうやって銀を取り出すのかすら知らない門外漢の私にとってありがたい施設です。
博多の商人が銀鉱石があることを発見し、鉱石を掘り出しはじめたのが石見銀山の最初です。最初はそれを博多まで運んでたらしいのですが、鉱石のままだと不経済で運搬が大変なのでこの大森で精錬しちまうようになりました。以後多くの人がここに定住し銀山に関わりはじめます。
当時の精錬法はまず鉱石を砕き水ですすぎ比重の軽い粉を除去し、沈んだ銀を含む鉱石粉を取り出しそれに鉛などを加え高熱で熱し溶解させます。すると比重の都合で浮き上がってくる鉱石の中にはいっていた鉄などを取り除けば比重の重い鉛と銀の合金の「貴鉛」状態のものができます。そしてその「貴鉛」をさらに動物の骨の灰や松の葉の灰の上に置きこれをまた高熱で溶解すると銀より比重が重い鉛が溶け出し灰のなかに自重で沈んでゆき銀だけが残ります。この方法を灰吹き法、といい、朝鮮から伝わってきた技法です。原始的といえば原始的なんすけど、説明されればははーなるほどなー、と腑に落ちました。
ひととおりの予備知識を頭に叩き込み銀山跡へ向かいます。



真言宗のお寺で羅漢寺というところ。銀山が栄えてたころは大森には多くの人か働き、当然各宗派の寺があったらしいのですが、閉山しちまった今でも残ってる寺はそう多くはありません。

真言宗ではないのですが、四国遍路のおかげで勤行次第はそらでも口ずさめるので参詣。

この寺の山の中腹にいろんな表情をした、そして同じ顔をしたものがない五百強の羅漢さんが安置されてます。この世を去った親しい人の顔が見つかるから、と羅漢さんに逢いに参詣する人が多かったとか。
先ほど精錬過程で鉛を使うって書きましたが、その鉛の害で早く死に至る関係者も多かったらしいです。
合掌。



森の中の遊歩道を進みます。舗装道路もあるのですが、寒かったので森の中を歩きました。
木があまりない足尾銅山と違ってここは森が広がってます。精錬のために大量の木材を燃料として消費してたはずですが江戸時代は幕府の直轄領となり厳重な管理のもとに鉱山経営がされていて、森林資源に関しても適切に管理されていたのでそのせいで緑が豊かです。世界遺産登録もそこらへんが関係してきたとか。



清水谷精錬所あと。
戦国時代に採掘がはじまりその後精錬もこの地で行われるようになったわけですが、明治時代には大阪の藤田組が採掘権を得ました。いまでも後継の同和鉱業に採掘権があるようです。で、藤田組が大枚をはたいて東京から技師を呼び、当時の最新鋭の設備を持った精錬所をこの地に作ったものの明治期には採れる鉱石の品質が予想より悪くなってて不採算状態に陥り藤田組はここでの銀採掘と精錬はあきらめ、せっかくの銀精錬設備も一年で操業停止になりました。以後、荒れるに任せてたのですがいまここで再度調査がはじまってるようで、もくもくと調査作業をしてる方がいました。



間歩とよばれる坑道の入り口です。これは福神山間歩。閉鎖されてます。石見銀山にはこんなふうな間歩の入り口が600近くあります。

公開されてる間歩のひとつが龍源寺間歩です。かじかんで画像がぶれててすいません。実はこの日、朝から石見地方はかなり冷え込んでまして、さむかったっす。
中に入ります。

ノミ等すべて人力で掘った坑道です。私は173cmありますが頭をぶつけます。江戸時代の当時の人たちは今よりけっこう背が低いのかもしれません。何人か頭をぶつけてました。
ちなみに平坦です。

鉱脈があったとおぼしきところ。たぶん腹這いにならないと入れません。
(これ、念のため説明します。ちょっと私の説明でわかってもらえるか謎なのですが、山全体が銀鉱石の塊というわけではなく、岩石の割れ目に沿って鉱脈があります。割れ目に沿って膜状というか板状に銀を沢山含んだ鉱脈があるのです。その鉱脈の方向性、石見銀山の場合鉱脈は東西に走っていることが多かったので南北に坑道を掘ってるうちに鉱脈に当たります。その鉱脈にそって東西方向へ銀鉱石を掘り進めた跡っす)(さらに補足説明するとサンドにたとえるとパンに挟まれたメインの具材ではなくピクルスが鉱脈だと思ってください。そのサンドを立てて横から爪楊枝で刺すとピクルスにあたりやすいわけです。その横から刺す爪楊枝が間歩です。そんな感じって云ったらわかってもらえるでしょうか)


間歩から出て、大森の中心部へ向かいします。その間にあったもみじが猛烈にキレイだったので写真を一枚。そのあと夢中で何枚か撮影。

この日、石見地方は小雪混じりの天気でしたが、このときは陽の光がさしてました。

通りすがりの何人かはこのもみじがかなり気になったようで、写真を撮りに吸い寄せられるように足を止めた二人組の女性とちょっとだけ話しました。何でキレイなものに惹かれるのかわかりませんが、キレイってのは正義っていうか、ほんと魔力があります。


大森代官所跡にある、石見銀山資料館へ。江戸時代石見銀山周辺は幕府の直轄地で、代官がこの地を支配していました。

建物は明治時代の郡役所をそのまま利用してます。ここは先ほどの世界遺産センターと趣旨は同じなのですがもうちょっと踏み込んだ資料があったりしました。採掘、精錬関連でも島根や大田市に伝わる資料を多く詳細に展示してます。
ここの展示でなかなか興味深かったのは経営その他の資料です。
石見銀山は福利厚生がわりとしっかりしてて働けなくなった従事者の家庭や抗内労働で病気になった従事者に対し一定の米や味噌製造の材料支給の制度があり、子供の養育手当に相当するものもあり、生産性第一主義ではなくステイクホルダーへの配慮がかなりあった経営がなされてたようなのです。そして銀山だけの一本足打法ではなく、副産物として出てくる土を使い無名異という薬を製造販売し、また産出する銀を諸大名に貸し(西日本は銀本位制で銀が通貨として流通してました)その利息収入を得て銀山経営に投資をし、他に米やみそを支給する財源にも充てられていました。石見銀山は鉱業、精錬、製薬、金融を兼ねてた社会保険完備の公営企業のような存在と認識するのが正しいのかも。ちょっと前の日本企業の日本的経営の雛形をみたような、そんな感じです。


大森の中心部です。一望できる寺の境内から撮りました。あまり広い地域ではありません。
ここにほんとに世界で流通する銀の三分の一を産出したシルバーラッシュの街があったことはいまの大森からはどこか想像できません。でも痕跡を見る限りやはり相当大きな街があり、人々が工夫し、自然と共生しながら人が生きてたってことはよく判りました。人は二足歩行する動物じゃないことの証明というか未来の人のために参考資料として残しておいたほうが良い遺産であるという趣旨もなんだかよくわかりました。


石見銀山をあとにして、松江へいったん戻ります。

日没までちょっと時間があったので「○○と××は高いところに登りたがる」ていうのがありますが、松江城天守閣へ。松江の町が一望できました。
宍道湖がみえるの、わかるでしょうか。


お城を見た後はとりあえず日帰り入浴できる温泉を地元の方に訊き久しぶりの温泉を楽しんだ(ただし人が数人いたので泳げず)後、あまりにも寒かったのでスーパーの場所を教えてもらい、サティで使い捨てカイロと毛糸の帽子を購入。これにコートと念のためもってきてたマフラーとあわせれば完全武装完了です。
この日は松江に泊まったのですが、宿で寒いっすねー、っていったら宿の人が考えようですよーこれだけ寒かったら良い日本酒ができます、と、ひとこと。その発想はなかったので、目からウロコでした。いいなあ、そういうポジティブ。

○遡及日誌2日目
朝早く、落雷の音で目が覚めました。冬の金沢もそうなのですが、冬でも落雷がある地域みたいです。

宿を出て雷にびくびくしながら強い風と雨のなか一畑電車の駅へ向かい出雲市方面行きに乗り、一時間強で出雲大社へ。

朝早かったので、松林のなかの参道には人がいませんでした。この松林、けっこう清清しかったっす。

出雲大社拝殿(御仮殿)。太いしめなわが特徴的です。
(いま、ちょっとややこしいことになってるので、念のために説明します。本来拝殿というのは拝礼を行なうための建物っす。普通、初詣なんかで参拝する場合、拝殿の前で拍手を打って礼拝します。お祓いなんかでも拝殿でやるのが普通です。で、いま、60年に一度の大修繕事業を出雲大社はやってます。本来神様は本殿にいるのですが、拝殿を仮住まいしてもらってるので拝殿が本殿扱いになります。ご神体を移すことを遷宮とよびます)(で、拝殿に神様がいるのですぐそばに仮の拝殿を作ってあり、そこでいままで拝殿でやってたことをやってます)

こちらが(いまは空家?になってる)本殿の入り口。門の中は神域ですからはいれません。ただ、この夏、遷宮を前に限定で公開してたらしいです。

平安時代は本殿は高さ48メートルで長さが100メートル以上の階段があった、といわれています
いまから8年前に境内から巨大な木3本を束ねた柱が出土してます。これはその実物大の模型。



本殿を横からみたところ。この建物は江戸時代のものです。伊勢と違って遷宮でも建物を建替えるわけではないのでそのまま残っています。
別にどうでも良いトリビアな知識ですけども、神社の建築においては瓦屋根は使われることは少ないはずです。板葺きや萱葺きが多いはずっす(寺が瓦葺であるので対抗してそれを使わなかった、という説あり)。出雲大社は檜皮葺です。屋根に耐久性の高い瓦を使ってないもんすから屋根の勾配をきつくして雨や雪が流れ落ちやすくしてます。



本殿にいる(はずの)神様はオオクニヌシノオオカミ(大国主命)です。因幡の白兎の話で、ウサギがサメを欺むいて海を渡ったためにサメに皮を剥ぎとられ、オオクニヌシの兄たちの教えに従って潮に浴し風に吹かれたら悶絶し、そこでウサギを助ける善意の塊のような神様のほうが有名かもしれません。このウサギはある姫神の使いで、その善行のおかげでその姫神と結ばれます(でも因幡の白兎って、どういう意味を持つんでしょう。欺いたらいけませんよ、っていう話なのか、女の男に対しての鑑定の話なのか)。



いなさの浜ということろです。旧暦10月は出雲に神様が集会をするので他所で神無月のとき、出雲は神在月というのですが、その神様はこの浜辺から大社へ行きます。神話に出てくる、アマテラスの使者、タケミカヅチがオオクニノオオカミと国譲りの話を一番最初にしたのもここです。でも私にとっては普通の海岸っぽいところでした。ロマンのない男だったりします。
余談ですがすんなりいった訳ではないものの国譲りの見返りにアマテラス側は出雲大社の本殿を造営します。

こちらは島根県立古代出雲歴史博物館。
昔の出雲大社の模型、先ほど書いた高さ48メートルの本殿、っていうのについて何人もの研究者が仮説を立てててるのですがそれの模型があります。清水寺を考えると高層の木造建築ってのはありえないわけではないのですが、平安あたりにそんなものがあったなんてちょっと想像を絶します。ただ、それはいまが進んでて昔は遅れてた、って云う発想なのかもしれませんけども。


いろいろ想像力をかきたてられながら博物館を見学したあと、松江に戻ります。

再度、松江城。前日は天守閣しか昇ってなかったのでほかのところを見学。

ぼてぼて茶、というのを城内の茶屋でたべました。泡立てた番茶に福豆、赤飯、菜っ葉なんかを入れて呑むのです。このとき、本来は箸を使ってはいけません。それを聞いてチャレンジしてみたのですが、ちょっと無理でした。

雷が鳴ってたのは知ってたのですが、松江城にも落ちてました。これはもろに直撃した松の木の図。自然って、こわいっすね。雷が落ちると電気が不通になるほか、セコ○も役にたたないとか。知らんかったっす。

城の北側、武家屋敷が並ぶ塩見縄手というところ。小泉八雲もこのあたりに住んでました。堀には遊覧船が浮かんでます。この後、茶室を見学してさらに松江市内をぶらついてました。

写真は京町川という川です。松江の旧市街を流れてます。向こう側が宍道湖になります。
京都もそうなのですが、街中に川があって水が流れて街中に溶け込んでる風景というのは不思議と落ち着きます。



この日はこのあとバスに揺られ、広島まで移動。広島といえば問答無用でお好み焼きっす。

別のところで食べたのですが、写真のようにお好み村という専門店が集まるビルもあります。
○遡及日誌3日目
広島は仕事で何度も来てる街なので土地勘があります。でも原爆ドームを見たことがありませんでした。見ておきたい、と思ったので市電を降りて、向かいます。

長崎の浦上の天主堂は信仰の場所なので再建したのに対し広島のこの建物は被爆当時のままの姿で残っています。写真の右側のいくらかいったところにあったらしい病院の上空600メートルのところで炸裂してるのですが、そのとおり見事に右側が中心に崩れてます。広島城天守閣はそのままの姿で吹っ飛びましたが、この建物がこれだけ残ってるのはレンガ造りで強固だったからでしょう。それでも崩れたレンガは建物内にそのまま瓦礫として存置してあります。浦上の天主堂もこの建物も無口ですが、ほんと雄弁です。なにがあったのか、どういうことがおきたのか、問わず語りでいまに伝えてます。

何ができるかっていったら、祈ることしかできないんすけども。



路面電車と連絡船にのって、日本三景のひとつ、宮島を目指します。

宮島には鹿がいました。私には東京にもどったら仕事があるのでヘタな任務を課せられたくないので話しかけられないように目を合わせませんでした。

目指すは厳島神社です。

厳島神社はいくらかの変化はありますが平安様式のスタイルそのままの建物といわれてます。で、写真は引き潮のときなんすけど、満ち潮のときは海上に社殿が浮かぶような感じになります。潮の干満で姿を変えるわけっすけどこの海を敷地として巧く利用した奇想天外な発想が、すごいのです。すごいのです、って思ってるのは私だけかもしれませんが。
参拝の後、宮島をぶらつきます。

紅葉がちょうど盛りでした。もみじがあって、鹿がそっぽ向いてるのは偶然です。
ちゃんともみじ饅頭を食しました。焼きたてをはじめて食しましたが美味かったっす。


宮島から連絡船と電車を乗り継ぎ呉へ移動します。
今回の旅行の第二目的地がこれだったりします。海上自衛隊呉資料館です。 

潜水艦ってのはでかいっす。高さは16メートル強、うしろはゆめタウンという西友みたいなスーパーで、4階建てぐらいなんすけど、それくらいの高さ。長さは76メートルですから4両編成の電車ぐらいですね。2004年まで現役だった「あきしお」という本物の潜水艦と自衛隊の任務に関する資料展示館で構成されてます。
資料についていえば割と詳しかったのは掃海、つまり機雷除去の歴史です。
機雷ってのはなにかって云うと、ぶつかってくるのを待つタイプの地雷の海上版です。機雷があると船は安全に航行できません。実は瀬戸内には戦時中に海上封鎖のため機雷が米軍によって数多く設置され、海上交通が危険な状況になっていました。そこで戦後のすぐに(戦前は海軍の街であった)呉の海軍関係者も掃海作業をはじめます。その後掃海は海上自衛隊に引き継がれます(もっとも完全に除去できてるわけでもなかったりします)。専守防衛海上自衛隊がしてきたことの業務のひとつです。湾岸戦争時に自衛隊ペルシャ湾で行なったのもこの掃海作業です。で、海上自衛隊でも機雷捜索や処理について研究を進めてますが高性能の機雷が開発されるのでいたちごっこっぽいみたいです。

掃海艇ははじまに搭載されていたフロートです。掃海に必要な機器が沈まないための「浮き」っす。 目と口が描かれてるのでひょっとして深遠な意味があるのかどうか実際訊いたのですが、単なるユーモアみたいっす。


実は写真撮るのを忘れて見学してました。


掃海具や機関砲のほか、海上自衛隊における一週間のメニュー、なんてのもありました。興味深いのは自衛隊では統一したレシピがあるわけではなく、各艦独自のレシピがあるらしいっす。

これは潜水艦あきしおの中。士官の寝台ですが、せまいっす。なおコンピュータがやられちまうので空調完備です。で、潜水艦には昼も夜もありません。ですから日没から日の出時間までは艦内を赤灯にしておくのだとか。ほかにも操縦席とか興味深い場所があるんすけど、潜水艦の中は撮影規制があるので、撮ってません。


こころゆくまでじっくり見学しましたです。


自衛隊資料館の隣にあるのが呉市海事歴史科学館です。
呉の歴史や戦争に関する記述は海軍の街だけあって、かなりありました。一見の価値はありましたです。

で、海事中心の博物館、別名大和ミュージアムともいいます。
それはこれがあるから。

戦艦大和の10分の1スケールの模型です。
けっこうでかかったっす。戦艦大和自体は呉の海軍工廠で建造されました。すでに完成したときには飛行機が発達し時代遅れだったんすけど、それでも日本の造船や生産管理を語る上でこの船は欠かせないと思います。



零式戦闘機と搭載されてた栄エンジン。中島飛行機(いまのスバル)がこのエンジンを開発したのですけど、この栄エンジンってのも高性能で、エンジン史を語る上で栄のあとにでてくる誉エンジン同様欠かせないものだったりします。
ほかに大戦中にの米軍の使用していた双眼鏡と日本のニコンの双眼鏡を並べてあって、比較できるようになってました。どっちがよく見えたかはいうだけ野暮っす。
悲しいかな、日本の工業は戦争に関連する部分で進化した側面があります。大和の造船技術のレベルの高さがその後の造船業界に継承され、戦前のエンジン開発のレベルの高さが戦後自動車エンジンで花開くわけっす。戦争の評価はさておき、いまある日本の繁栄って戦争ぬきには語れない部分はあると思います。


呉で博物館をはしごした後、呉線山陽線を東進します。

夕暮れどきの瀬戸内をみていて、衝動的に尾道というところで途中下車。この夕陽の下、海辺のコンクリの護岸の上でしばらくぼーっとしてました。普通電車の一人旅だからこんな芸当が出来ます。

大林宣彦監督の「さびしんぼう」って数少ない観た映画のひとつなんすけど、この渡船でてきたよなー、と思う。

違いましたっけ?


この日は岡山に宿泊しました。
○遡及日誌4日目
この日はユースとかの安宿ではなくきちんとしてるホテルに泊まってなおかつふかふかベッドだったのですが、5時起床です。岡山駅を6時前の電車で宇野というところへ。

宇野から連絡船に乗り継ぎ、めざすは直島という離島のベネッセハウスミュージアムというところ。

私設の現代美術系の美術館のようなところです。リゾート施設のようなところにミュージアムがあるっていう理解が正しいかも。アンディ・ウォホール他過去のコレクションもありますが、この建物自体がちょっと変わってて、普通の建物設計ではなくて作品の一部になってるというか、置くものを予め決めておいて設計したんだな、ってのがわかりました。来た人が作品に参加しないと作品としてほんとに完成しないと思われるものなんてのもあってそれはどうみても建物の設計時点で落としこんどかないとできなかったはずなのです(ちょっとネタバレになりますが安田侃という人の「天秘」という作品があるのですが開閉可能な窓の向こうにスクエアな空間の中に大理石が誰かが上に乗るのを待つように横たわり、それに人が横たわると石の冷たい触感が体を包みこみ空を見上げているとキャンバスで描いたような空が見え大地に溶け込んだような錯覚に陥いるんすけど、それを他の人が眺めるとこれまたそれが作品として面白いっていうやつです。これはほんとに行って貰わないと面白さは伝わらない)。作品と建物が直接つながってるものがけっこうありました。
建築ってこういうこともやりようによっては出来るのか、と面白かったっす。
美術館自体がひとつの作品じみてるところもあります。建物の中心にコンクリの巨大な円柱の空間を持っていて、そこに箱がつながっている感じの3階建てなんすけど、その円柱空間自体が朝一で行って人がほとんどいない状況だったせいか静謐で冷たい感じがし、あー、設計の安藤忠雄さんはこの空気というか空間を作りたかったのだろうか、この空気も作品のつもりなんだろな、と推測しました。
作品が置かれてるのはミュージアムだけではありません。草間彌生、蔡国強といった現代美術作家の作品が屋外に配置されてます。
たとえばこんな感じ。

ニキ・ド・サンファールという人の腰掛という作品と安藤忠雄設計のベネッセハウスの宿泊棟です(撮影オッケイだったけど、ちょっと真正面からの写真はダイアリに載せるのは自粛)。
他のものもけっこう見ごたえがありました。



この浜辺で休憩してたとき、犬の散歩中の地元の方からいろいろとお伺いしました。
直島には三菱マテリアルの工場があります。金や銅の精錬施設で、ずっと精錬で栄えた島だったとか。特に金の精錬で有名で、でも島に金鉱山がありそうにも見えず、え?なんでこんなところに?と思ったのですが、瀬戸内海ですから船で鉱石や材料をもってきやすいのです。ちょっと目からウロコでした。で、産業廃棄物の不法投棄で揺れた豊島ってのがあるのですがその豊島はここからほど近く、その豊島の産廃のリサイクル施設が精錬所にあって見学できるはずだから役場に問い合わせてごらん、って熱心に勧められました。たぶんそういうのに興味ありそうに見えたのかもですが、ひょっとしたらほんとに島の人にとってみて欲しい知って欲しい施設なのかもしれません。
行けなかったので、罪滅ぼしにそういう施設があることをこうやって書いておきます。


もうひとつ直島で行ったのが家プロジェクトとよばれるもの。直島にあった建物を芸術家たちに任せるプロジェクトです。
いくつかあるのですが、ははーそうきたか、と思ったのは神社を改修したもの。

ここは地元の古くからある護王神社というところなのですが、これは杉本博司という人が改修しました。
手前の拝殿と本殿の間の階段が透明になっています。

で、透明な階段は拝殿の下までつながっています。さすがに神域だと思うので撮影しませんでしたが拝殿の下に地下空間があり、拝殿の東側から入れます。えっとたぶん、その入り口から朝日の姿をした神様が拝殿の下を経由して本殿まで入って行く、という設計だと思われ。


家プロジェクトもミュージアムもベネッセ(赤ペン先生のところっすね)が施主です。正直、ほんと太っ腹だと思う。


直島は芸術作品はありますが、普通の漁港もあります。

その漁港にいた、あまり人を警戒しようとしてない猫。


実はこの日の午後遅く、関西在住の知り合いと大阪であう約束をしていて昼前の船便で高松へ向かいます。その後舞子経由で帰京しました。

写真右のちゃぶ台のような山は屋島です。高松上陸後、そういや春先あれ登ったんだっけ、と妙な感傷に浸りました。




計画性のない、テーマもない、まとまりの無い旅行だったので、記録もそのとおりになっちまいました。わざわざ読んでいただいてありがとうございました。
もし、これをよんで「ここ行ってみたい」という場所がありましたら幸いです。