個人的体験

こんなこと、たぶんどこにでも転がってる、至極当たり前のことかもしれません。ただ個人的にこういう体験は初めてであったので、特記しておこうと思います。たぶん二度とこういう体験ないでしょうし、したくないんですが。

その人が最初どういう意味で云ったのかが判らないのですが、差異についてあまり関心がないようでした。なんて云えばいいのでしょうか、性別の話しです。えっと、比較的ゲイレズバイ方面の方が集うチャットでもって、その人は人を愛する点で変わりは無いじゃん、みたいなことを発言したわけです。ある面でその言い方は正しいのです。おおまかなくくりの中で人間を好きになってるという点ではその指摘は妥当でしょう。しかし、それをまるでさも当たり前のようにいわれるとちと違うのです。人を愛することに変わりがないかもですがスタートラインが違うわけです。簡単に愛を告白できないのも都会の真ん中で手をつなぐこともできないのも、多数派たる異性愛の方々が支配する世間一般の無言の同化の圧力があるからで、同じじゃないのです。それを認識しないである意味脳天気に人間を愛する点で同じじゃん、というとそうではないですよー、といいたくなってきます。もっともその場ですべて反論できたわけではありません。またその反論もチャットという性質上満足のいく物であったかどうかわかりません。半分怒りのようなものがあって、簡単に一緒くたにすんなよ、生息領域が異なるなら差異があってあたりまえじゃないか、とかいうことを考えていたはずです。その差異があることをみとめて貰うために、二等辺三角形と正三角形は違うんです、けどあなたはその差異をすっとばして同じっていってるようなもんです、といった気がします。うろおぼえですけど。そういや私は1月にこんなことを書いてました。

実は、悩むわけです、普通。社会的に求められてる男は本来女性が好きにならなければいけないわけですが、同性にも惹かれるってことに、自分は多少おかしいんじゃないかとか、考え込んじまう訳です。また、世間の目と自分の本音との葛藤がはじまる訳です。旧約聖書レビ記の記述とかを知ってる敬虔なカソリックのゲイやレズの人なら多少は自分の信仰について考えるでしょう(旧約聖書旧約聖書に過ぎませんが信仰を持ってたとしても保守的なカソリック教会がちと同性愛者を受け入れてくれるかどうか私は知りません)。ちょっと自己決定が難しい問題であるわけです。異性愛者に比べて。
ここで、ある意味人道的に、異性愛者も同性愛者も人間だから一緒じゃないか、というのは実はかなり説得力あるんですけども、本人には響いてこないのです。世間通念上の一般人との差異があって、たぶんその差異を多少なりとも真剣に考えて、で、人によっては薄氷踏むおもいで決断して、その方向へ歩き始めたゲイやレズやバイに対して、その差異をすっとばした言説というのは、ものすごく乱暴なわけです。少なくともそう感じる人がここには一人います。つか、そう考えた時期もありますが、自分を納得させられなかったっていうのもあります。
で、やはり、人間が出来てない私なぞは、そういった大雑把な括りについて、反発を覚えちまうのです。

で、その発言者のかたはこの記事をみてある反応をみせてきたのですが、実はわたしにはその内容が理解できませんでした。ご本人にとっては自明の理であっても私には自明の理でなかったからです。で、唯一判ったのはこういったことを別の人と話してます、という内容でした。そうですか、だったらなんでこちらにメールを寄越したんですか?というのをぐっと堪えてあたりさわりのないことを返信した覚えがあります。見ず知らずの、それもたぶんこちらからすると礼儀上配慮しなければならない年上の女性に喧嘩売るのは躊躇われ、かつ、主張があまり明らかでない人と喧嘩したところでたぶん判って貰えないかも、というのがあったからです。それに話し相手に「理屈っぽい学生」と、「より理屈っぽいサラリーマン」がいたとしたらふつう前者をとるでしょう。私だったら前者をとります。この時点で不信感がなかったといえば嘘になります。


で、あるときその方がまたチャットにみえたとき、チャットの中では代理母について、なぜ実子にこだわるのかが判らない、という論点や、影響や法的なことを話していたのですが、その方はたぶん感情論としての自分の見解を述べられていました。しかしその見解がおよそ本人には自明の理であったはずなんですが云われたほうからするとまったく感情論にしか思えず説得力に多少欠けるところがあり、また300日要件について(いきなり)持ち出して良いことだと思う、と、自説を述べずに一方的に話をされていました。
たぶん議論というのは暗黙のルールがあって、時機に逸した発言や話されてた論点からかなりはなれた発言は避けるべきものだと思うのです。論点が拡散されてまとまりがつかなくなるからです。発言のあと座は白けながらも、たぶん論点の拡散を危惧した管理人さんが時機を逸した発言について忠告し、確か私が論点のズレを指摘したはずです。
ところがこれがその方を刺激してしまったらしく退室されてしまいました。感情的になってるのであるならば発言を控えてクールダウンするという選択肢もあったであろうに、とおもうんですが。


一方的に自説を述べられて反論の機会を与えられないまま、というのは私のような狭量な人間からすると卑怯な振る舞いに見えるんですが、年上の女性にあなた卑怯ですよ?とも云えず、しょうがないので自分のブログで772条の300日要件について解説と反論を試みたわけです。
で、しばらくして反応があって、いいっぱなしであったことを詫びられたので怒りの矛先をいったんは私は納めました。論点的にいろんなものを抱えてますので簡単に決定打的結論が出せるものではありませんが記事をよんでくださったらしく一応の法的論点について理解していただけたみたいですが、ただ、判断がつかない、ということだったようです。
そんなことあるのかな?
ともおもったんですが。自分が産むかもしれない子供の父が誰になるのか、という、女性なら誰もが自分の身に置き換えて考えやすい想像しやすいテーマだと思うんですが、その是非は兎も角、私は愛しているであろう男の子を産みたいとか、それくらいの意見はあるかなー、だったら読んでくれてありがとう、と心底すんなり云えたんですが、叶いませんでした。つか、これは自分のほうが悪いのでしょう。私はまだ説得力のあるだれにでもわかりやすい記事を書けないみたいです。


話をもとに戻します。
その方は云いたいことをいって満足したわけではなかったらしいのですが、しかしながらその場に居合わせた方の忠告をどうも攻撃ととらえていたようなのです。で、忠告を忠告ととらずに攻撃と取るのは失当だし失礼ですよ?と説得したものの、攻撃という印象を拭えなかったもののさしたる悪意は無いものだとわかってもらえたつもりでいました。また感情をあらわにしたことを詫びるような文面があればこちらの主張も多少はわかって貰えたつもりでいました。




いましたってのは、訳があるんですよ。
しばらくたってからメールが送り返されてきたわけです。差出人不明で。




たぶんその方なりの意思表示なんでしょう。
ついでにいうと持っていたらしいブログも跡形が無いらしいことを考えると、「てめえのいうことなんざ、ききゃあしねーよ」ってことでしょう。
たぶん、いやな事があったらリセットしてきて生きてきたんでしょう。
相手にどういう感情があるかとかは判らない方なんだと思います。また、行間にどういうことがあったか、推察できない人だったのでしょう。
その人のために一時期管理人さん以下複数の周囲がそれなりに気を配ってたこと、それなりに周囲が話をあわせようと考慮したこと、判ってもらおうと思って試行錯誤したこと、もちろんこれは全て水面下のことです。それらは全て徒労と化したわけです。向こうから足蹴にされたわけです。忠告を含めそれらの配慮すべてがその人にとっては不快だったのかもしれません。
人間、快と不快があったら、快を求めるでしょう。快と不快は表裏一体だと思うんですが、快ばかり求める人もいます。快が得られないって判った時点でリセットできるならリセットしちまえ!となるのは判らないでもないです。その人が本とに快しか求めていなかったということを見抜けなかったほうが悪いのかもしれませんけど。



判ってもらおうとか努力をするってことは、やはり無駄なことなんすかね?
何事も。判ろうとしない人に対しては。



ここをその方がみることはたぶん無いでしょう。ゆえに書いてます。たぶんその方はゲームのように現実をもリセットしたかったんでしょう。嫌な事、リセットすればそれなりに気は楽です。しかしリセットした事実までは消すことが出来ません。同時にゲームのキャラじゃないからあなたの発言をきいていた、もしくはメールで受け答えしていた、あなたのために動いた周囲が抱いた感情までもはリセットできません。あなたはリセットしたつもりであっても現実はリセットできて無いんですよ?
と書いたところで無駄だと思うんですが。



さらに無駄なことを書いておきます。
現実に出会って思いどうりにならないって嘆くことをたぶん、仏教では「苦」で表します。苦はずっと有るんではなくて、思いどうりにならない現実を無理に思いどうりにしようとするから「苦」なんですよー?リセットしたつもりでも「苦」はなくならないんですよー?
わかってますー?