旧約聖書をお読みになった方は多少わかるかもしれませんが、旧約聖書の中には約束といった言葉が出てきます。日本語にしてしまうと意味不明ですが、例えば「乳と蜜の流れる約束の土地」なんてのもあります。言葉と約束というのは結構重要なキーワードであるようです。そういえば出だしは「最初に言葉があった。言葉は神であった」です。

ユダヤ教徒や一部のキリスト教徒の場合、神との契約の証左として割礼があります(割礼の意味の判らないよいこのみなさんはわからないでいいです)。戒律を守ることなどを約束している彼らはけっこう信仰に篤かったりします。ほんとに敬虔なクリスチャンとかは、冗談は許せても嘘はいけないと考えますし、約束を守ろうとします。気のせいかもしれませんが、世界各地で経済の重要なポジションにユダヤ人がおおいのは私は彼らが言葉を大事にし契約や約束を守ろうとするその姿勢が信用につながっているからじゃないかとおもっています(もちろんベニスの商人シャイロックみたいなのもいるかもしれませんが、あのはなしとて約束の履行という側面があります)。

余談ですが、洗礼こそしなかったものの私は聖書に一時期影響を受けてしまったのか、約束を守るとか契約を守るということにけっこう気をつかっているようです。待ち合わせならば、私はたまたまその時間にそこに居合わせないとどうしようもない事態に陥る可能性のある職種いるせいかなるべく約束された時間を守ることを前提にしていますし、遅れたとしてもあらためて約束した時間に自分に過失がないとき以外は到着するようにしています。どうもこの姿勢が最近異常なのかな?とか思えてきたのですが、自分が口外した約束についてはそれを些細なことであっても守ることが自分の信用につながるとか考えているからです。こういう文章でも老成というのかわかりませんが40くらいとおもわれてる方がいらっしゃるみたいですが、私は30代前半で、かつリアルではどうみても20代後半にしか見えないせいか軽く見られがちなので、どうやって相手に信用してもらえるかという点からそういう習慣がつきました。もちろん自分がそうであっても相手にそれは要求しませんし、プライベートでは約束をすっぽかされたことなど何度もあります。私と仕事どっちが大事なの?とかいう質問はしたことありませんが、普通こたえは決まってます。野暮ですね。


約束を守らないとか、契約を守らない、というのは本来好ましいことではありません。契約であれば例えば債務不履行による損害賠償請求とか違約金支払とかになってきてしまいます。
ただそういった約束を守らないことのペナルティーの金銭による解決という手段があることによって、約束を守るとか、人の誠実さとかいうものは失われていきます。すれっからしになってしまったので別にまたか、で済むのですが、契約が守られないことなんてけっこう有り得ることです。
約束とか契約とか守るほうが馬鹿馬鹿しく思えることさえあるでしょう。

いやなんか馬鹿馬鹿しいんですが。

どうも舐められてる?という感じがリアルでしてて、ちょっと個人的にめげていると言うか、どうしたものかとかおもっています。半分冗談で、秘密裏に関西弁をマスターして威厳というか凄みというかそういうのを出したほうがいいのかなと思う今日この頃です。
いっぺん、言ってみたいですね。白とも黒ともつかない蒟蒻野郎に対して


ああ?しばいたろか


とか。
(用法が間違ってたらどなたか教えてください)