「映え」の重視の世の中で

日本橋東急跡に建てられたビルのそばにたいめいけんという洋食屋さんがあります。小さいころから知ってて、代替わりして味も代わりましたがそれでもわざわざ行くだけの価値のある店です。私は卵嫌いなので絶対頼みませんがタンポポオムライスというのがあって、ライスの上に載ってるオムレツをナイフで切ると中の半熟のオムレツがどろっと広がります。何年か前に行った時に隣に居た4人連れが全員そのタンポポオムライスを頼んでいました。頼んだあと、ドロッとしたオムレツを4人全員スマホで撮りはじめていました。出来立てが美味しいに決まってるんだから早く喰えばいいのに、と思いつつ、その出来事が妙に印象に残りました。「人のふり見て我がふり直せ」だととらえることとして食べるものを私はあまりスマホで撮りません。強いて言えば富士吉田で

同行者のうどんが後まわしになり、先にできた自分のフォトジェニックじゃないうどんを前にしてチュールを前にした猫が「待て」状態で待ってるようなその拷問状態に耐えるため気を紛らわすためにスマホで撮ったことはありますがかなりの例外です。って、スマホで食べ物を撮るの話をしたいわけではなくて。

タンポポオムライスをスマホで撮影するする人たちを眺めたあと「映え」という単語を知りました。オムライスなどフォトジェニックなものを撮影してネットにアップして、「いいね!」という好評価を得る構造を知ったのですが、別にそれが悪いとかいうつもりはありません。

話はいつものように横に素っ飛びます。

公立美術館と読売新聞が連携して、その「映え」を意識して「美術館女子」という連載をアイドルを起用してはじめています。美術館男子じゃダメなの?っていうまぜっかえしは別として、おそらくその記事をきっかけに美術館を訪問する人が増えたらめっけものかもしれません。

でもなんですが。

フォトジェニックな「映え」るものをアップして好評価を得る、そういう情報を共有し、同じような行動をしてたらほぼ他人と違う視点・変数は入ってきません。「映える」ものを簡単な言葉≒「いいね!」で評価しあってれば争いもなく平和かもしれませんし、もちろんそれが悪いとは言いません。ただ、美術館(に限らず図書館も音楽堂など)は、建築家や画家(や作曲者や作家)や版画家などの他人の視点を変数として取り入れることが可能な施設です。それらを前に「映え」を意識、ってのはなんだかなあ…というか。美術館建築や美術館所蔵品を前にして「なにがどう良いか」ということを言語化せず「映え」を重視する、ということは、建築や美術と対話していないのとおそらく同義で、それはそれでもったいないなあ、とは思いました。

映えとは関係ないくだらないことを書きます。

人は周囲に居る人間に影響を受けることがあると思うのですが、私はどちらかというと具体的な説明を求める人が近くに居て、おそらく影響を受けています。展覧会や歌舞伎や借りたCDなどでも「どこがどう良かったか」という話になりやすく、若干苦労しつつもその説明があたりまえだと思ってるフシがあります(なので青ブタの感想などこのブログもけっこう文章が長い)。そのせいか、どこがどういいのかという理由のない単純な「いいね」的なものが、幾ばくかの違和感があります。なんだろ、その違和感がある限り、長々と文章を書いちまうかなあ、と。ブログは短い方が良いのかもしれないけど手短にできなくて・「映え」る画像もアップしてなくて、恐縮です。