13とか21とか(追記あり)

森博嗣さんのミステリの登場人物の一人に犀川先生というのがいます。本職は工学系の助教授です。その犀川先生のクセのひとつがものを数えることであったりします。多くの人はそんなことはあまりしないことかもしれぬことのひとつとして描かれてるところがあって、ものを数えるクセが私も無いわけではないので「そういうものなのか」といくらかショックだったことを覚えていますって、てめえのショックについては横に置いておくとして。

それが宿題であったか自由研究であったか記憶があいまいなのだけど、ひまわりの観察、というのを小学生の頃にやったことがあります。いまから思えばとても不思議なんだけど学校で鉢に植えたひまわりをわざわざ家に持って帰って枯れるまでの観察日誌をつけたのです。観察日誌っていったって何日でひまわりが俯いたかとかは詳細はさすがに覚えていません。

ただひまわりの花弁をあたりまえのように数えたのを覚えています。持って帰ってきたひまわりの花弁は13で、(両親は東京出身で田舎が無い東京在住の小学生というのはヒマを持て余していますから)別のところに植わってるひまわりの花弁も数えるとほぼ13とか21とか34です。法則性があるのかな、というのは理解しつつも、これがなにを意味するのか小学生の頃にはわかりませんでしたし、よく観察したね、というコメント以外貰ってません。ただそれ以降、花弁の数が気になって花を見つけると花弁を数える小学生がひとり、多摩には出没するようになっています。不思議なことにひまわり以外でもだいたい3、5、8、13とかが多いのです。

花弁を数える小学生がやがて美少年になり…じゃねえ平凡などってことない10代の少年になった頃、1、1、2、3、5、8、13、21、34、55っていうフィボナッチ数列というのに出会います。簡単に書けば隣り合う2つの数を加えると次の数に等しくなる規則性のある数列です。なんだか並びに既視感があって、ああ花弁か、と気が付きます。理屈はわからぬものの、そっか、花弁にも規則があるんだな、と腑に落ちた記憶があります。そこで植物を研究する農学系に行けば話としては面白いのですが残念ながら法学部(自称あほうがく部)へ行ってしまっています。社会に出ると、不意に聴こえるものや目に見えるものを数えることはあっても、花弁を数えることはしなくなっていましたし、フィボナッチ数列も忘却の彼方にありました。

三年くらい前にデートで蓮を観に東大農場へいったとき桃に燃え尽き症候群がある(ので収穫後にお礼の肥料をすべき)という説明ボードの横に、ひまわり(の種)とフィボナッチ数列の関連を示す説明ボードがあって、私が(気にしたのは花弁であって種ではないのだけど)小学生・10代の頃に不思議に思っていた特定の数字と植物のことをまじめに研究する人が存在するのを知り、なんだかありがたく・頼もしく、でもってつい読みふけってしまっています。そこらへんから再び火がちょろちょろ点いていて、たまに見かけた花の花弁を数えることがあったりします。

6枚の花弁の辛夷であるとか、すべての植物がフィボナッチ数列にまつわる数字の花弁を持つわけではありません。でも花弁がフィボナッチ数列にまつわる数字のものもけっこうあります。なぜフィボナッチ数列の数字の花弁とそうでない花弁が併存してるのかとか、フィボナッチ数列の数字の花弁のある花はなぜそうなったのかとか、足らない知識と脳で考えたところで「生存のための最適化のためにそうなった」くらいしか見当がつかず、答えなんか出ません。

でもここらへんのこと、興味が尽きません。はてな今週のお題が「わたしの自由研究」なのですが、どこに発表するわけでもなく私はまだ小学生のときの「花弁を数える」を引き摺っています。そんなことをして何になるのか・時間の無駄ではないか、と云われるとキツイです。でも役に立たないことほど興味深いことってないっすかね。

[追記]

はてなブックマークをやってないのでここで返答させてください。

umaiyan1さん。

花弁がフィボナッチ数列の数字の花で「好き、嫌い」をやってしまうと先が読めてしまいますが、フィボナッチ数列の数字以外の花弁の花もあることはあります。

たとえばダリアは

品種改良がなされてるものは花弁がいくつあるかぱっと見わからないのがあります。もっとも「好き、嫌い」なんてどうでもよくなってしまう可能性もありますが。