黒い雨

NHKBSで映画版の「黒い雨」を放送していた(はず)なんすが、検索で来る人のために念のため、書いておきます。映画版は「遥拝隊長」のモチーフを織り交ぜたりしてて、原作とはちょっと異なります。ピカドンに限らず戦争が人に与えた影響ってのを考えるとき、映画版はよくできていると思います。できることなら原作もお読みいただきたいところです。
以下、原作のあらすじを書いておきます。主人公のひとりは通勤途上の可部線の駅で被爆しています。奥さんは千田町というところで被爆しています(ただし爆心地からちょっと離れてます)。主人公は姪を預かってるのですが、その人はピカドンの直接の被ばくはしていません。しかし主人公家族は結果として当日、爆心地に近い市内中心部を歩くことになります。ピカドンのあとの数日間の記録と、戦後の記録が主になります。
ピカドンの後の数日間、被服廠勤務の主人公は社命で寺でお経をならい、亡くなった人の葬式を司る立場になります。安芸門徒の葬儀には「白骨の御文章」がでてきます。白骨の御文章のなかに「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」というのがあるのですが、読んでるほうはピカドンの結果その状況が広島で起こっていたことが理解できます。また主人公は被服廠の燃料の都合でピカドンのあと石炭を宇部から広島にいれてほしい旨陳情のため陸軍へ行くのだけど、どんどん陸軍が事態解決能力を失ってゆくのを淡々と記しています。
幸いにして主人公には外傷とかは一切ありません。ただ戦後、身体が思うようにいかなくて県東部(甲奴郡だったかなあ、とっちにしても備後のほう)の田舎に戻って養生してるんだけど、ぶらぶらしてると近所の人に怠け者扱いされてしまいます。やむを得ないので魚の養殖ってのをやろうかってことになってきています。で、預かっていた姪の縁談の話があるんすが被ばくしていたとのうわさが立ち、雲行きが怪しくなるところがメインです。その姪御さんは繰り返して書きますがピカドンの直接の被ばくはしてないのです。もちろんピカドンがなにかなんてのはわからない状況で黒い雨を浴びていて、さらに甲奴郡に戻ったところで原爆症がでちまう。
原作のほうでもう一つけっこう割かれてるのは被ばくしてしまったお医者さんで(この人も備後だったかな)、医者の目線で淡々とピカドンの後の治療について書いています。しかし時期が時期ゆえに、さらにどんなものかもはっきりわかっていないがゆえに、とくに有効な策もなく、奥さんが隣県まで桃を買い出しにゆき、それで一命をとりとめたような描写です。
作品に関していえば反戦平和とかの主張ってのはあまりありません。わかりやすくもありません。ただピカドンや戦争というのがどういうものか・人はどう過ごしたか、ということを個人の側から浮かび上がらせているだけであったりします。ピカドンってのはもちろん爆心地の被害はめにみえて甚大で多くの人がなくなってるんだけど、同時に県全体に見えない傷ってのをかなり残してて、思想というのとは関係なく、かたちに残りにくいことはどうやって残すのか、って点で作品として残しておいたことで首の皮が一枚、つながってるのかなあ、と思えます。文学の効能として、とても大事なことかもしれませんっていいたいところですが、おれ文学部じゃないのでへたなことは言えませんが。
でもってもうちょっと普遍的なこととして「ピカドンとか死とかあんたなら不可避な状態を目の当たりにしたらどういうふうに行動する?」っていうことを提起してるのではないか、っていう仮説をたててます。なんのことは無い、自分がピカドンにあったわけじゃないけど死というものを間近で体験し理解でき自分で対処しなくちゃならんかったとき、ああ井伏さんはこういうことを云いたかったのでは、なんてのが気がついたからです。と、同時に引用されてる「白骨の御文章」が迫力をもって私の前に迫ってきたんすけど。
私は広島へ仕事でなんべんも行ってるのだけど資料館にいってるわけではないので、平和などに関して口出しする資格はなくて語るつもりもありません。ましてや文学がなんちゃらなんていうつもりはまったくないので、ここらへんで。