世の中には単式簿記というのと複式簿記というのがあります。単式簿記というのは単純な小学生のおこづかい帳のようなもので、なにに支出したか、どれくらい収入があったか、いくら残ったか、という記録です。ただ難点がありまして、現金の移動しかわからない点です。現金取引以外のものが把握できないですし、借入れしても収入として処理し、単式簿記だけでは借入金など決算時点で把握できず、資産や負債がどの程度あるか、というのがそれだけでは判りません。
複式簿記というのはちょっとだけ複雑になります。資産の増減と損益の増減ということを考え継続して記録します。現金で土地を買ったとき、現金資産が減って土地の固定資産が増える、という記入をします。銀行から借金をしたら現金資産が増えますが、負債も増加し利子分は損失になる記入をします。またどれほどの負債があり、どれほどの資産があるかという賃借対照表も継続した記録から作ります。民間企業はたいてい複式簿記です。
地方自治体では単式簿記がけっこう多いです。なぜかといえば役所は基本的に議会で決定した予算を執行するのが仕事ですから、執行を把握するなら単式簿記でもかまわないのです。で、単式簿記のほうが記録は容易なのですが、くりかえしますが資産や負債の状況がどうなっているのかというのがそれだけではわかりません。地方債発行残高や借入金については他の書類を見なければわかりません。自治体外のひとが、その自治体がどれほど資産があり負債を抱えてるのか、というのはなかなか把握しにくいところがありました。自治体のなかでも、たとえば青島都政までは都所有の道路がどれくらいの資産になるのか(完成直後にくらべどれだけ資産価値が目減りしてるか)、把握していませんでした。青島さんが怠慢だったわけではなく、その仕組みがなかったのです。
石原都政の最大の功績をあげるとすると、複式簿記の制度を都庁に入れ、自治体会計を民間企業と同じようにし、資産と負債がどの程度あるかということをある程度把握しやすくしたことです。石原都政になっての最初の仕事はコストカットで、財政再建に取り組むうえで問題を明確化するために行ったのですが、けっこう画期的なことでした。たぶんこの分野では名前がのこるのではないか、と思います。
もうひとつ石原さんの置き土産として書いておかねばならぬのは、オリンピック招致にかこつけて、小学校の校庭の芝生化をすすめたことです。オリンピックと芝生になんの関連性があるのか、疑問が無いわけでもないのですが、土ぼこり舞う校庭で遊んでいた昔の小学生はいまの小学生がうらやましかったりします。


あんまり政治家としては向いてないところはあります。都知事在任中、北米の同性愛者のパレードを見学しマイノリティで気の毒だ、といったうえで、「男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」ってなことをいったのですが、足りないというのは石原さんの頭のなかの感覚の話で、現実に生きてる女同士・男同士のペアは、石原さんの考える足りる足りないは関係ありません。去年3月の地震の後の電力不足時にはコンビニの深夜営業止めろ、っていう発言をしてます。電力需要が逼迫するのはピーク時は深夜ではありませんから、実際深夜営業はなくなりませんでしたが、現実がどうかは関係なく、頭で考えたことをつい口にしてしまう、小説家としてはともかく政治家としてはいくらか適格性を欠く人です。もちろんなにをどう感じて言おうと自由です。頭で考えた思いつき・感覚を政策に反映しなければ別に問題はありません。問題はありませんが、ここ数年、目に見えないところまで働かすべき一定の想像力も無くなりつつあるのかもしれません。それが老いというのなら、老いというのは残酷だなあ、と一都民は思っちまうのですがそれは兎も角。
石原都政は今日で突然の終わりを迎えました。思想などでは理解できないところもあり、功績は評価されなければならないと思うものの、やっと退場してくれたか、というのがあります。さらに都民としては選挙で選ばれておきながら任期途中に都政を投げ出すのはどうよ(一定の処理を終えたものの迷走中の新銀行東京についてや築地魚市場の問題などがあり、ちょっと無責任な気がしないでもない)と思うので、支持はしませんが、選挙の洗礼を恐れることもなくコストカッターと財政再建という損な役まわりを今まで引き受けてきた80の老獪なおじいちゃんがこのさき困難を承知で死に場所を探しに行くのなら、その意気だけはちょっと評価してあげたい気がしないでもなかったり。