「再生」のこと

練馬の光が丘から代々木を経て六本木を経由して、月島や両国や御徒町を経て新宿へ至る都営地下鉄大江戸線といいます。もともとは12号線といい、そのあと公募で名称を募り得票数が多かった環状線と決まりかけたのですが、完全な環状ではないことを理由に当時の都知事が異議を唱えて「大江戸線がいい」と云い、しかし練馬を大江戸というにはかなり難があるのですが結果として大江戸線に決まりました。公募という手続きを踏みながらも結果が気に入らないとひっくり返してしまったので、なんかこう、些細なことなのですが石原都政というと「おじいちゃんがやりたい放題やってた感」が拭えなかったりします。

とはいうものの。

地方自治体などの行政組織では単式簿記がけっこう多いです。役所は基本的に首長が調製した予算案を議会で決定しその予算を執行するのが仕事でその執行を把握するなら単式簿記でもかまわないのです。しかし自治体外のひとがその自治体がどれほど資産があり負債を抱えてるのか、というのはなかなか把握しにくいところがありました。石原都政時代に複式簿記の制度を都庁に入れ、資産と負債がどの程度あるかということをある程度自治体外の人であっても把握できるようにし、「おじいちゃんがやりたい放題やってる感」を醸し出しつつも選挙の洗礼を恐れることもなくコストカッターと財政再建という損な役まわりを引き受けていた点は、おそらく数少ない功績のひとつです。

在任中、北米の同性愛者のパレードを見学し「マイノリティで気の毒だ」としたうえで、「男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」ってなことを続けていったのですが、足りないというのは石原さんの頭のなかの感覚の話で、現実に生きてる女同士・男同士のペアは、石原さんの考える足りる足りないは関係ありません。現実がどうかは関係なく、頭で考えたことをつい口にしてしまう、行政の首長としてはいくらか適格性を欠く人です。もちろんなにをどう感じて言おうと自由です。大江戸線の名称のように無害なものは別として、頭で考えた思いつき・感覚をそのまま政策に反映しなければ別に問題はありません。問題はありませんが、行政の首長として働かすべき一定の想像力も無くなりつつある状態に一時期陥っていたのは確かです。それが老いというのなら、老いというのは残酷だなあ、と当時は眺めてたのですが。

私は政治や財政の専門家でもないうえに性的少数者関係の専門家でもなく、そして文学の研究者でもないので、毀誉褒貶の多い老獪な政治家で文学者でありえた人の死にに関する総括は出来ないのですが。

これからくだらないことを書きます。

小説家としての石原さんの仕事に「再生」(文芸春秋・2010)という視覚を失い聴覚を失った人について描かれた作品があります。おそらく実在する研究者の実話を基にしてると思われるのですが、どう読んでもその不条理とも思える実話を嚙み砕いて咀嚼した上で書かれてるはずです。がん(膵臓がん)であったこと・死の直前まで執筆を止めなかったことを今日の報道で知ったのですが、「再生」を読んでしまったほうからすると、がんという不条理なものを我が身に受けそれに対してどうとらえ、その不条理をどう受け止め、そしてその後どう変化していたのか、もしくは書くものに変化があったのか・ちっとも変化なかったのか、作品や著作を追うことなどはしていないのですが、ゲスかもしれぬものの若干気になったり。