大学卒業まで住んでいた町には作家がいました。住んでた家から200mもないところにいて、その人がなにをしてるのかわからなかったくらいの小さい頃に自転車の空気を入れてもらったことがあります。直木賞を取ってて名前を出せば誰もが「ああー」という人です。一時期テレビに出ていて売れっ子でもあったもののちょっと変な人でみんな距離を置いていて、なおかつ家庭にもあんまり戻って無いことを知ってたのですが(私と歳がそんなに変わらない子供が二人いた)、いちおう顔見知りなので踏切などですれ違えば会釈はしていました。一般の家庭人とはちがう感覚を持ってても周囲のおとなが放置してたのは、その人が作家で常識と非常識の間を行ったり来たりすることが商売であることを認められてるからでしょう。作家に世間的な常識を求めてはいけない・求めちゃいない、というのを近くで見ていました。もちろん作家がすべてそんなちゃんとしない人ではないかもしれませんが。
作家って常識とか世間にとらわれないところがあるのではないか、と思っています。石原慎太郎という人の「太陽の季節」を読んでからはそう思うようになりました。「太陽の季節」には奔放な登場人物が出てきます。人間は本来孤独なもので、だからどこか他人を求めるのではないかと気が付くところがあってけっこう深いのですが、なぜか登場人物の未熟さ・奔放さを象徴する性器で障子紙を破るシーンが有名になっちまいました。作家という存在は、他の人が考えないようなことをいくつか織り交ぜながら語りにのせて最後は読む人を思索にひきこむのが本分のひとつなのではないかな、と思っています。そこに常識・非常識の区別はあんまり関係ないでしょう。作家に常識を求めるのは、蕎麦屋ナポリタンを注文するようなものだと思っています。石原慎太郎という作家は知事として毀誉褒貶はかなりあったけど行政事務処理能力に長けていてその一方で大気汚染問題に目をむけてディーゼルエンジンの改良を訴えるなど、鋭いことをいくつかやってのけました。それでもやはり常識と非常識の曖昧なところがないわけではない作家なので政治家として見識を疑われそうなことを述べてました。北米の同性愛者のパレードを見学しマイノリティで気の毒だ、といったうえで「男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」ってなことをいったのですが、足りないというのは石原さんの頭のなかの感覚の話で、現実に生きてる女同士・男同士のペアは、石原さんの考える足りる足りないは関係ありません。そこらへんが判らないのが石原さんの悲劇というか特性でしょう。ただそれらのことを述べていてもそれを政策に反映させることはあまりしなかったのはさすがなんすが。
あんまり政治の話は書くべきじゃないかなと思いつつ、もうちょっと書きます。石原さんのあとを継いだ人も作家です。私は石原さんも辞任表明した猪瀬さんも魚好きとしては魚市場移転の件がどうしても支持できなかったので任期中には一票も投じませんでした。それを別に誇るつもりもありません。都にある医療法人の許認可の一部は都にあります。医療法人からすれば副知事クラスの人にお金を貸して(それも担保をとらず+利息なし)おいて損にはまずならないでしょう。今回のことを贈収賄にすぐ結びつけることはおそらく厳しいですが、贈収賄では便宜を払ってもらうために公務員・議員に金を渡すこともありますが便宜を図ってもらおうとするほうより立場を利用して要求したり断らずに受け取った人間のほうがゲスなのです。それを責めるつもりもないです。そこらへんの感覚が判らない、というのはあーやはり作家という向こう岸の人だったのだな、と思うのみです。猪瀬さん自身、死者たちのロッキード事件という疑獄を扱ったノンフィクションを書いてらっしゃるので、適度に老いたのかもなんすが。
さて、いま五輪以上に東京都が抱える厄介な問題がひとつあります。都の財源に法人住民税というのがあります。地域で必要な費用について法人にも個人と同じように幅広く負担を求めるためのものです。しかしこの都に入る法人住民税を恒常的に一部国税化する動きがあります。国税化してその都の財源を別の地方自治体に振り向けるという腹なのですが、都の公共サービスの経費を負担するためのものがなぜ他県へ流れるのか説明がつきません。老朽化したインフラの再整備などがあり、財源は手渡すのは得策ではありません。厄介なかじ取りが要求されるんすがこの時期の時間的ロスはでかいので、贈収賄以上に罪作りな人だなー、とニュースを観ながら思いました。