だらしがなくなってゆく国

帳簿、というのは特別な技術を必要とするか、といったらそれほどでもありません。誰からお金を受け取ったか・誰へお金を渡したか、日付とともに記録して整理する簡単なことです。


ある政治団体が借入金について帳簿に記載しなかったことが政治資金規正法違反に問われてました。その借入金がどこから出たものかが判らないので憶測を呼びます。そして政治資金をつかって不動産を購入して家賃収入を得てたこともわかっています。しかしそれは本筋の話ではなく、政治団体の資金管理をめぐって帳簿に事実でない記載があったことは確かで、借入金不記載については資金を扱ってた秘書の人が一審では執行猶予付き有罪になってます。じゃあ、その政治団体代表は有罪にできるか。そうなると資金管理担当の秘書と管理団体の代表が共謀したかが問題になります。共謀というのは認識が一緒というか共同で同じことをする意思がないとそれを認めるのが困難です。検察はその代表を起訴を断念します。刑事裁判の場合、検察官が起訴するかどうかは事情聴取を含め証拠を調べて、起訴するかどうかを考えます。ある事件が不起訴になったとしたら、その理由のひとつは、起訴するに足るだけの証拠があるかないかです。もし、起訴するに足りるだけの証拠が無かったら起訴はしません。怪しい、というだけで起訴したら危険だからです。日本は起訴基準が有罪基準とほぼ同じレベルで、起訴するときに合理的な疑いをいれない程度のある程度の確証(やわらかくいえば一般人が誰も疑わない程度の確証)がそろっていなければなりません。だから検察が吟味して「あーこりゃ無理だわ」ってな案件は起訴しないこともあります。政治資金団体の代表が「説明を受けて了解した」上で秘書が帳簿に正しくない記載を行ったとしても、刑事はがちがちに証拠を固めなくちゃまずくてそれができなかったので検察は断念したのでしょう。この政治団体の件は最終的に検察以外の組織・検察審査会が起訴相当と考えて裁判が進みました。でもって裁判所も案の定「説明を受けて了承する」だけでは関与はあったとしてもそれでは「共謀とはいえない」という認識で、シロ判定をしました。無罪は無罪なのですが、裁判所は収支報告書の作成や提出を秘書に任せきりにしていたと主張したことについても芳しいことではないと批判してて、云うべきこともいっています。なんのことはない、自分で自分のことを始末してないそのだらしなさに注文を付けてるわけで。


自分のことを自分で始末できない政治家はひとりではありません。
前首相の政治資金団体の場合、額は数百万だけど恐ろしい記載があって、国に提出した報告書の日付の記載のままだとすると現金が数百万円単位で足らない・つじつまが合わない状態で別の政治団体に寄付を行ってました。しかも借入金の記載もないので現金有り高がないのにもかかわらず寄付したことになってて、確実に正しくないの記載なのです。さすがに国会でいかがなものか、と去年の夏に問題になったのですけども。


世の中に数字に疎いひとはたくさんいます。でもなんすが、数字そのものは事実を記載すれば決して嘘をつきません。それほど難しいことではないのです。でもそれを操作しようとするからややこしくなる・巧くいかなくなるのです。ちゃんと操作しよう、うその記載をしようとするのならちゃんと準備しなければなりません。本気でうそをつくなら腹を据えてやらなきゃなのです。いちばんわかりやすいのは去年破たんした林原です。有力地銀や大手銀行をごまかすためにあっぱれなくらい徹底して数字を隠しました。それにくらべて隠すことに関して徹底することもできない、なおかつ、お金の出し入れの記録すら満足にちゃんとできない・てめえのことをてめえで処理できないくらい、政治家というのは確実にだらしなくなってきてる・劣化してきています。隠すことができない、というのは致命的です。なにかの機密を伝えても漏れちまうことがあるからです。必死になって隠し事をしながらいきてる私からすると正直だらしがないとしか思えません。そんな中途半端なことしかできない人が権力中枢に戻る・いたことにくらくらしてくるのですけれど。


そんな政治家を育むこの国自体も劣化してるのかもしれません。もっとも私は落ちぶれてく日本しか見てないので、劣化してなかった時代の日本というのをよくはしらないのですけども。