昼間に撮ったもの

こういう色合いのもみじがけっこう好みなのです。
最近、なんだか紅葉報告ブログになってますが、上を向いて歩くくらいには、ほどほどに元気です。

わけあって茶室の造作っていう方面から茶道にかかわったのですが、茶道にかかわると「○○好み」という言葉にぶちあたることがあります。○○の中には家元の名前なんかが入ってて、ははあうまい云い方だなあ、と思ってます。製茶どころは製品について、こういうのが○○さんは好きですよ、ってなことを売り文句にするのです。だからなんなの?なんて理解が浅いむくつけき東男は思うのですが、ひとつの参考にはなるわけで。
でもって、ははあ、ひとってなにかのよさを伝えるときに、好きとか好みという言葉を使うのか、なんて思ったのですが。
なんでこんな云い方をするのかってのはなんとなく判ってて、どこが良いか、っていうのを説明する・納得させるのは案外難しいせいなんじゃないか。たとえばわたしなんかは上の写真で色の変化があるところがすごく好きなのですが、それが万人に「良い」という評価をうけるとは限らないわけっす。お茶でもなんでもなにかを良いということのものさしは共有できるとは限らない・簡単じゃないので私の好みはこれ、っていう云い方になるのかなあ、と。
好き、というのは案外孤独と裏あわせなのかもっす。
何かを好きな自分・誰かを好きなじぶん、ってのがいて、でもそれを考えてる・意識してるじぶんってのはやはりひとりぼっちで、好きなものを目の前にしたり、好きな音楽を聴いてるときは幸せだし、でもなんだかわりきれないことがあるから、同好の士を捜し求めてちゃんといたり、ってのがうれしいのかな、なんてことを考えたことがあります。
好きであるとか、好みっていうのを云うのは、どれもひとりでもできることなんすけど、なんでふたりのほうが楽しいか、ってことをかんがえるとそこらへんに理由があるとおもうのだけど、あんまり説得力がない考えかもしれません。