再度考察でない考察

決断 河野父子の生体肝移植

決断 河野父子の生体肝移植

臓器移植法改正推進派の河野太郎代議士の本です。とっかかりにはわかりやすい本です。賛同はいたしませんが、臓器移植経験者としてのご意見は傾聴に値します。


臓器移植が自己決定権を尊重していることについては既に前に述べたのですが、自己決定権というのは何なのでしょうか。自己完結し自己制御し自己対象化しているのであるならばそれは純粋な自己決定であるとおもうのですが(商法の世界なら会社の経営陣による自治というようにとれます)実は社会というのはそれを許さず人間の自己というのはそれを許しにくいものだとおもうのです。

私は死期が近い状況でチューブがスパゲティ状況の医療が必ずしも患者本人の幸福につながるとも思えず、自己決定権に基づく、安楽死等いわゆる苦しまない静かな死を迎えたいという権利はあるとおもいます。 積極的安楽死について患者の自己決定を要件とすることは判例上(東海大学事件)で認められているのですが、ただ臓器の摘出とは何らかの「権利」に基づいてなされるべきものなのかなという疑問があります。もし臓器摘出が何らかの「権利」の行使によってなされるならば、 それは本人の自己決定なのだから家族の同意などは不要ということになるでしょう 。さすがに改正案でもそこまでは踏み込んでないのですが、現行法では臓器移植が患者の自己決定権を重視しながら、必ずしもそれを徹底はしていません。

ドナーカードでは意思表示でありますが、脳死状況下の臓器提供は死の到来以降になされるものなのであり提供の有無についての純粋な自己決定を患者に認めるというのは、正直なところどうかとおもっています。 死後の身体は民法上もはや本人が所有しているわけではなく、かといってその意思表示を無にするのも民法死因贈与という法律行為を規定していたりしますからどうかとおもうのですが、形式的には現行法のような極力本人の意思を尊重し、家族が同意した上で摘出を行うという方式が望ましいのかもしれません。

脳死状態患者の従前の意思表示がないときに臓器移植のための脳死判定や臓器摘出を、家族がそれを代行する、というのが今改正の力点でもある(らしい)のですが、現行法が持っていた自己決定に関する概念はどうオトシマエ?をつけるのか、とか単純におもうのです。はまぞうにあげた本は臓器移植を推進する河野代議士の熱意はわかるのですが、たしかに救われる命が増えるのは確かだとおもうのですが、死、というのは我々にとって他人任せにしてよいものなのか?という気がするのです。