法改正

繰り返しになりますが、再度書きます。まとまってませんし、書いてることはさして変化してないので、興味のない方はすっとばしてください。


脳死ってのは何か、っていうと、脳が動いてない状況です。もともとは臨床的概念でした。で、傍から見てると脳死患者は限りなく眠ってる状況に近いのです。が起きることがまず、ありません。脳幹ってのがあるんすが、脳死状態だとそこが機能停止します。そこが機能停止すると呼吸や循環器が停止します。ただ人工呼吸器なんかをつけるとその状態では心臓は停止しません。ポイントオブノーリターンで、元には戻りません。まず、よくなることはありません。
今日、通過した法案の推進者である河野太郎代議士の脳死に関する主張を紹介しておきます。人を人たらしめてるのは脳であり脳が機能停止したならそれは人の死として扱ってよいのではないか、また脳死になってから心臓停止まで昔に比べ遅らせることができるようになった(慢性脳死と呼ばれる状態があります)現在、ほんとに脳死を人の死として認めないでおいてよいのか、という点はちょっと傾聴すべきところがあります。
肺や心臓を移植する場合、この脳死状態の患者から摘出することが、医療技術的には可能です。実際助かる命もあります。で、臓器移植法が制定されるまでは心臓の停止・呼吸の停止・瞳孔散大=「人の死」で、脳が動いてなくても心臓さえ動いていれば「生きてる」ことになっていました。脳が動かなくなっても心臓が動いてる段階での肺、心臓移植っていうのは以前から外国では行われてたのですが、日本では臓器移植法制定前はそれができなかったわけです。なんのことはない、「生きてる身体から心臓を摘出する」=殺人だからです。


現行の臓器移植法は「脳死を人の死としてもいいよ・臓器を摘出してもいいよ」という事前の積極的意思を表示した場合に心臓が動いてても「脳死」とし、その身体は「人ではなく死体」として扱いさらに家族が同意すれば「動いてる心臓」ほかの臓器を摘出します。このとき、脳死状態でも臓器移植関係のドナーカードを持ってなかったら、脳死というふうには扱われません。つまるところ、脳死状態が来たとして、ドナーカードを持ってて、臓器移植に関して積極的に摘出に同意してるAさんは脳死を人の死としてあつかい、ドナーカードをもってないBさんは脳死になってもそれを人の死として扱いません。さらにAさんの場合、家族が同意すれば臓器を脳死患者から摘出しますがこのとき、家族が反対したら摘出はしません。現行法上は脳死状態の患者がいても、脳死を人の死としていいという同意や臓器摘出に同意をしてなければ心臓が止まるまで「生きてる」ことになってます。
今日衆議院を通過した案は、「脳死状態は人の死」としています。今までと違って、ドナーカードに積極的に臓器提供の意思表示がなくても積極的に死と評価されるようになります(ただし事前に脳死判定を拒否する意思表示をすることができる→たぶんこの場合は脳死状態になっても脳死と扱わないものとなるはず)。(法案がほんとに成立して附則や政令が整備されないと確かなことはいえないのですが)文字どうり解釈すると患者が脳死になったときに臓器提供を前提としていない場合はたぶん人権の享有主体ではない死体になるでしょうから保険が利かなくなるでしょうし治療が打ち切られかねないんすが。
臓器摘出に関して言えば、現行法でも今日通過した案でもAさんの家族が嫌といえば絶対摘出不可です。そのかわり、今日の法案だと本人の生前の拒否表示がなければ本人の意思がわからないときは家族の代諾でもよくなります。この場合、家族が拒否すればそれは尊重されます。
現行法でも改正法でも家族等が臓器摘出をキーパーソンとなって拒否をできるようにはなっていますが、法が改正されて「脳が機能停止してもう起きることはありえないけど心臓が動いてる状態」という目を瞑ってる身内を前にして「脳死は人の死です」「別の救える命が有るんです」という事実をつきつけられたとき、家族がはたしてどれほど冷静な判断が可能でしょうか。


現行法はかなり自己決定という側面を重視して成立したと思われるのですが、改正法の本人の意思表示がわからなくとも家族の代諾でよいという案は、本人の自己決定を意識してないような気がします。法案の問題点のキモは「なぜ本人の同意がないのに家族が動いてる心臓などの臓器の摘出を可とすることができるのか」だと思ってます。本来的に患者は自己の身体を自分で意思決定する潜在的な自己決定権があると思うのですが(手術でも同意書をかきます)、現行法がそこらへんを忖度し脳死を人の死とすることについてや臓器摘出に「本人の同意」ってのをかなり重視してるんすけど改正案は心臓が動いていようと(脳死判定を拒否する意思表示を事前にしておかない限り)臨床的概念であった脳死を一律に死として扱い、摘出に本人の同意を要求してない点で、あきらかに後退しています。
自己の身体の処分に関しての判例を眺めれば死が不可避な状態での積極的安楽死の条件のひとつに本人の生命短縮の強い意思表示を要求してるところを考えると、心臓を含む臓器摘出をしていいという意思表示をしていない人からの臓器摘出を家族の同意だけでできるように改正するのは、(本人の意思をとうてないわけで)臓器摘出対象の脳死状態患者の根源的な権利・尊厳ってのを軽視してないか、もう助かることはないから、っていうので、切り捨ててしまっていいのか、すごく疑問なのです。改正案は臓器を移植して欲しい側の意見はかなり反映されている気がするのですが、臓器を摘出される側に対しての配慮が欠けてる気がしてなりません。
今日衆院を通過した法案がそのまま改正法となれば、かなり「脳死状態の移植が場合によっては可能な心臓、肺」が増え(?)救われる命は増えます。でも繰り返しになりますが個人的には臓器摘出に関してはすくなくとも現行法の本人の意思表示を前提にし、かつ、家族の同意が必要という厳格な要件は死守すべきではないのかな、とは私は思うのです。


さらに蛇足です。衆議院を通過した案では、15歳未満でも摘出をオッケイとしています。したがって、子供に対する臓器移植が可能になる方向へ一歩近づきました。現行法上15歳未満の子供は摘出ができませんでした。なんで15歳以下の子供から臓器を摘出できないかって云ったら15歳未満は意思が成人に比べ欠けると考えられてる(ことを意識してるはずだ)からです。人は死亡すると被相続人となりますが、15歳以下の場合は成人に認められてる遺言能力が無いのです。つまり自分が死んだらこうしてね、って言う意思表示をしても法的拘束力がありません。仮に15歳未満の未成年が臓器摘出の可否の意思表示をした場合それを認めるとなると民法の遺言能力が無いのになんで臓器摘出の場合だけそれが認められるのか、ってことになってきます。しつこく繰り返しますが、極端な話、15歳未満の死体は他の生命が助かるかもしれないので価値があるのでその意思表示を特別に認めます、って云う事情を子供になすりつけてるだけだったりします。


今日の衆議院の採決では党議拘束をかけませんでしたから、自民党公明党民主党も割れました。死生観にまつわる話で、各自の信念にまつわる部分になるので、ふたを開けるまでわからなかったようです。個人的にはいつ選挙があるかわからないこの時期での採決はどうよ、と思っていました。
参院を通過しないと法案は法律になりません。今日、衆院を通過した法案は参院で修正が図られるかも知れず、いまのままの案がすんなり通るかどうかも判りません。当分の間は選挙とは関係のない参議院での、冷静な審議がなされることを祈ります。


善意は尊重されるべきものですが善意のある種の犠牲をベースにして成り立つものゆえに、犠牲を伴う善意を示さないことが「善意をもってない」っていうふうになるのが一番怖いです。助かる命がある、という正の部分を強調すればするほど、ほんと善意を強制されやすいという、見えなくなるものが増えるのではないでしょうか。ここのところ、なんかそんな気がしてならないんすけど。