御幣とナス天

両親が死んだ後も祭祀は相続財産なのでそのまま神棚と荒神は引き継いでいます。もしかしたらあまりメジャな行為ではないかもしれませんが、晦日祓いというのを氏子になっている神社から事前にもらっていて大晦日の夜には神棚を筆頭に四方を左右左と振ってお祓いをします。その晦日祓いは終わった後は神棚に供え、元旦には神棚と荒神には瓶子に入れた酒と里芋の一種であるヤツガシラを使った雑煮を供えています。また別に御幣をわけてもらっていて、それを元旦の朝に住んでいるところの四方に置いていました。死んだ父から私は病床で口伝でそのように教えてもらってて私も20年くらい続けていました。

でもなんですが。

年末に晦日祓いと御幣をわけてもらいに行ったとき、権禰宜さんが途中で電話がかかってきたので席を外し、その際に私に渡す予定の御幣等のメモが見えたので確認すると晦日祓いはともかく、いままで四方に置いていた4つの御幣はうち1つは神棚用で残り3つは荒神に供える前提であることがわかりました。「ちょっとまて、全然違う…」と頭の中は真っ白で、今回初めて知ったのですが頭が真っ白になるような事実を知ると人はほんと死んだ金魚のようにほんと目を見開いて口がふさがりません(社務所の防犯カメラには死んだ金魚のような顔が映っていたかも)。もっとも権禰宜さんが戻ってくる頃にはポーカーフェイスを取り戻し、とりあえず何事もなかったかのように礼を述べて社務所を辞しました。

御幣を引き取ったあと、いままでと同じようにするか、神社の指定に従うか…としばらく考えた挙句、たしか神道ではないけど「過ちては改むるに憚ることなかれ」ともいうし、まずは神社の前提に従ってます。大晦日晦日祓いをし、元旦の朝には四方に置かずに神棚と荒神に御幣とヤツガシラの雑煮とお酒を供えてます。仮にいままでのが決して過ちでなく何かしらの根拠があったとしても絶対神道ではないけど「To err is human, to forgive divine(人間は間違うし許すのは神の業)」ってのもあるよなあ、許されるのでは、とも考えてます。ただ更新が途絶えたらお察しください。

年が明けてから神社へお参りし、帰途にそば屋に入って天丼の並を注文し、それを食べてる途中に店長と思しき人が厨房からすっ飛んできて、ナスの天ぷらの皿を片手に天丼に盛り損ねたことを詫びてきました。云われなかったらわからなかったくらいで、かえって好感を持ててます。ほんと、人は間違うし、間違ったらその場で改めれるのは決して悪いことではないよな、とアツアツのナス天を喰いながら思えました。

はてな今週のお題が「2020年の抱負」なのですが、年末から年始にかけての御幣とナス天の一件からなんかこう重要な示唆をもらった気がしていて、なので

「間違いに気が付いたらまず改めよう」

であったりします。オリンピックイヤーらしい大きな挑戦であるとか、新しい技術やイノベーションで実現したいこととか、私は意識低いのでそんなことはちっとも思い浮かばないのですが。